『ホニホフール』 [ Xоньхохоор / Honihohoor ] は羊型の撥弦楽器です。
どう見ても羊ですが、これは弦楽器の一種です。
このようにして演奏します。右手は羊の体の中です。
3本の弦(=心の琴線)が羊の体内に張られていて、
ひっくり返して胴の内側に右手を直接突っ込み、手指で弾き鳴らします。
左手は背側のスリットに指を突っ込み、弦を押さえて音を選びます。
三味線を羊のぬいぐるみにすっかり縫いくるんでしまい、
ほつれ目に手指を突っ込んで鳴らすような構造と例えれば解りやすいでしょうか。
…ちょっと待ってください。なぜわざわざそんなことを?
楽器全体が羊の肉体にモコモコと覆われていたのでは、
奏する手指を全く見ることができず、うまく弾けないではありませんか。
まるでTV番組でよく見かける、
《箱の中身はなんだろなゲーム》のよう。
だったら最初から縫いぐるまなければよかったでしょうに。
しかし残念ながらこの羊の心の琴線(=弦)は体腔そのものに張られているため、
羊の身体から楽器のみを取り出して確かめることができません。
空っぽのギターケースの内側に弦が張ってあるのを想像してください。
ケースの中身はなんだろな…ギターでした!というような実体がないわけです。
つまりこの羊は、楽器ではありながら、演奏という営為の欠かせない魅力である、
「操る手指を私が見る/あなたに見せる」という実体の前提を最初から蹴っ飛ばし、
誰のためを想ってんだかさっぱりわからない存在を堂々と呈しているのです。
演奏者当人はよろしい。ギター弾き語りと一緒で、
手指をいちいち確認せずとも一応の操作は可能ですからね。
一方、お客さんに運指を見せないというのはいったいどういう了見でしょう。
楽器演奏といったら素敵なドレスをお召しできらびやかな舞台に上がり、
スポットライトを浴びて美しく格好良く奏でて聴衆を楽しませるのが魅力なのに…
まして羊の内臓を生きたまま弄ぶなんて崇高な音楽ステージとは正反対の猟奇な光景。
高い観覧料を払わされたお客はいったい何を楽しめっていうんですか?!
…しかし羊の腹の底から何やらポップなミュージックが聴こえてくる。
突っ込んでいるあの手、腹の中でいったい何をどうやっているんだ?
聴こえてくる歌は、神の情けか? 悪魔の誘いか?
そこまで問うなら見せてやろう。
知らないでいたままのほうが幸せということもあるのだぞ。
目に焼き付けるがよい、血まみれの胸の内、羊の裏腹を。
「ヒツジは とてもおくびょうな どうぶつなので、
がっきは からだのなかに はいっています。」
「てをあらったら、どうぶつにさわろう!」
「ちきゅうは、わたしのものよ!」
現れたのは何と、こども科学! 文言も全くもってトンチンカン。
そして思いもよらない人物が発する唐突な征服宣言。おっかねえよっつの。
==みんなでうたいましょう================
♪メーリさんのひつじ あんましやらしくて
とッ捕まえて ふン縛って ヤッちまっただ
♪メーリさんのひつじ やっぱし可愛いくて
ぶッ殺して かッ捌いて 喰ッちまっただ
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様々な要素が本末転倒な弦楽器『ホニホフール』は、
迷える羊をシンボルとした音具であると同時に、
この世に渦巻く《 内と外 》《 裏と表 》の宿命を題材として、
産業動物学的、比較民族文化学的、宇宙哲学的見地に裏打ちし、
その狭間に溺れもがき苦しむ存在の無常へのアクセスと昇華を試みながら、
「フェティッシュ=現物崇愛とはなにか」を読み解くための、
いわば高次元的・音曲ラブドール獣具なのです。
理想と現実、本音と建前、嘘と真…
様々な《 内と外 》《 裏と表 》の混沌と大悲を以下に例示しながら、
こんな世にこんな姿で産まれ落ちた もののあはれ を語って参りましょう。
今日はまず屠畜の話から。
更新待ってた者たちよ、待たせて済まんかったな。
頑張って読まなきゃ♪と気張ると絶対くたびれっから、
砂肝かなんか食べながらダラダラお読み戴いて結構よ。
よろしくお付き合いくださいませ。
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【 妄話1:精肉バザール、ホニほふーるでゴザール 】の巻
この行為、
中央アジア民族文化に鋭い各位ならお察しのとおり、
羊(ホニхонь)を食する蒙古遊牧民の屠り(ほふり)の流儀、オルルフです。
羊をひっくり返して押さえ込み短刀で腹を小さく裂くやいなや、
切り口に腕をズブリと差し込み、手先で何やら謎の仕事をする。
時間にして1分以内。すると羊は驚きうろたえこそすれ、
さほど大暴れせぬままウ〜ンと絶命するという。すげえよなあ。
突っ込んだ先の手指の仕事が見えないため妙技の真相を知りづらいのですが、
詳しい現場ルポ(内澤旬子「世界屠畜紀行」開放出版社)によると、
あれは横隔膜を突き破って動脈を探り当て指先で切断しているんだそうです。
内視鏡を突っ込んで様子を見てみたいですね〜。
そうすると腹腔に放血、そのまま内出血死させて、
血は捨てず開腹時に掬い集めてソーセージの材料にするとか。
できるだけ苦しめずに命を送り亡骸を戴く、天の恵み、祈り。
むろん羊にとっては冗談じゃない惨殺術でしょうが、
血しぶきが飛び散らないため不思議と残虐に見えないのが興味深い所。
これはヤギ
「血で大地を汚(けが)してはならぬ」の教えがよく解説に添えられますが、
現場映像を見る限り結構ぞんざいで、手についた血糊をパッと払ったり、
毛になすって拭ったりはしている様子なので、あれはおそらくは他圏の屠術、
すなわち他宗教への牽制を大いに含んでのことではないかと推察しています。
では他圏における屠術を覗いて参りましょう。
喉笛かき切り術はワイルドですよ、
羊はわりあい大人しく受け入れてしまうが、
ヤギは状況把握や感情表現に長けた人懐こい動物ゆえ、理不尽と悲しみいっぱいに、
「(ギャーッ、いやだい、殺されるよう、死にたくないよう!)」
と終わりの瞬間まで悲痛に訴えます。祝日は街中が血の海になるのだとか。
斧!
▲俺はこの映像が一番きつかった。見ていると首がムズムズ、息苦しくなる。
瞬間首チョンパ式は腕のよい職人にかかると拍手喝采、
これだと斬り離されたことをよくわかっていないまま天に昇るものと思います。
上手く斬れたら大急ぎで胴を抱え上げ、器に受けた血は神に捧げる。
▲熟練の作業風景
馴染みのない文化圏の住人からみれば非常に惨たらしい光景ですが、
こう見えてこれはこれで出来るだけ苦しませない配慮ゆえの手業でもあって、
従って事前に刃物をよく研ぎ澄ましておき極力少ないアクションで施すのが流儀。
切断に失敗すると、ウンビャーッ!!
仕事人はアレレッ?! 慌てて焦って刃を確かめ、周囲は朗らかに大笑い。
スイカ割り同様のハッピー感覚ですね♪
▲刀が曲がってしまうパターン
▲仕返しされてしまうパターン
▲血を捨てる穴に落ちてしまうパターン
▲血しぶきが口に入ってしまうパターン
▲なかなか仕留められずヤギいじめになってしまっている最悪パターン
東南アジアだとやり方がまた少し違うようで、数人で押さえつけておき、
睾丸をサクサク切り取ってから(肉が臭くなるためらしいが、殺す直前で効果あるか? )、
ナイフを喉元へ垂直に突き刺し、内から外へ振り抜いて放血させる方法であるとか、
酢を瓶ごと口に押し込みイッキ飲みさせて殺す方法もとられるようです。
※映像は上記を越えるショッキングな方法なので閲覧をお勧めできません。
ここでは動画を貼り付けず紹介のみと致します。自己責任で訪ねてみいや〜。
https://www.youtube.com/watch?v=csU9zj5g0A8
https://www.youtube.com/watch?v=O2XYrUU116w
https://www.youtube.com/watch?v=JWiOc8ARREQ
マサイさん達は極めて単純、口を押さえて窒息させ気を失うまで待つ方法。
鼻&口がマズル先端に突出する構造上、アフリカ人のでけえ手で数分押さえられたら、
▲内臓を生でチュルリといく食事シーンもお見逃しなく(1:14〜)。
ムングッ…フングッ…そしてポックリというわけ。
いちばん無血な殺し方だが、苦しいだろうにな。
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ふ〜、いやはや、幸か不幸か、YouTubeをひと廻りしただけで、
家畜殺し世界めぐり旅が出来る時代になりました。
そりゃ俺だってかわいそうだと思います。しかしこれらは全て、
各々の暮らしに息づく1シーンでもあることには違いありません。
生きるためにやってきたし、これからもやっていくだけのこと。
比較民族学の悪い癖でね、こういう資料をお借りして並べていますと、
あの国ではああいう方法ですその国ではそういうやり方なのですと、
ついつい鳥瞰的な視点に立ったつもりで分類し断言したくなるんですが、
短絡的で勝手な理解に陥ってしまわぬよう注意も必要ですね。
実際、オルルフの本場でもヤギの場合は暴れやすいからなのでしょうか、
ひっくり返していきなり腕突っ込んじゃう方法のほか、
結わえ付けておいて急所(両角の間=おでこ)を鈍器でカチーンと打ち、
ダウンさせてからオルルフに取りかかるパターンもあるみたい。
臨機応変に対応し、逞しく生きている。勉強になるなあ。
「ホニホフール」はオルルフという命の作法を音具に取り込み、
その行為と意味への畏敬を表現した楽器です。
オルルフでは命を繋ぐ動脈を指先で断ち切ることで羊の命を天へ送り出し、
ホニホフールでは心の琴線を指先でつまびき振るわせ羊の命の歌を引き出す、
つまりどちらも「外なるこの世から内なる宇宙へのアクセス術」というわけです。
【おまけ】平野レミの♪ ウキウキ楽しいお料理タイム
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しかしまあ、家畜とはつくづく因果な存在でございます。
もふもふキュートな動物ちゃんも裏ッ返せば単なるクソ袋。
可愛がって育てた子たちが、見たくない過程を経て、滋味溢れる肉の塊に。
そなたの全てを主に捧げなさいアーメン…ってか?
生活に役立つ存在を必要時に備えて貯蓄しその産物を得る。
或いはその業を務として代行し賃金を得る。これが家畜の存在意義です。
捧げるためだけに産まれた命、その瞳に浮かぶ涙も知らぬが仏。
当該カルマより逃れようと菜食精進を貫く慈悲深き先達の、
批判喧伝のわりに都合良くいかず所々に漏れる生臭の様相。
都会育ちのモヤシッ子たちには見えづらいものの、最も近いところをいえば、
牧場で食うジンギスカンにはどなた様も少々思うトコあんでねえべか?
あれはさっきまでメェメェ鳴いてたのを捌いてすぐ出すわけではないですが、
皆さんったら「臭いお肉だわぁ… 人間って残酷ね… 鶏牛豚は仕方ないけど羊は…
ワンちゃん猫ちゃん虐待野郎は地獄で八つ裂きの刑にされればいい…」
なんて喋りながらご家族そろって屍肉をペロリと平らげちゃうんだもの。
正義のためならばと、自分の残酷性と差別心を棚に上げてご都合よく。
なんつって、ボクちゃんもお肉だ〜い好き!
畜肉魚肉ウェルカムのなまぐさ破戒僧でござるよ。
とりわけ羊肉特有の動物園臭、私はこれを戴くたびに性的快楽物質ドバ〜で陶酔します。
なぜか羊肉の食後だけはまったり満ち足りたピロートーク時のようなエロ気分になる。
愛ゆえその肉体を取り込むという行為に性的なパトスを抱くのかもしれません。
ところが一方、そいつが元気に草をはんでいた時の姿を食事中に妄想してしまい、
ありがとうごめんなさいでも面白いもっと知りたい愛したいという気持ちから、
骨やら殻をゴミ箱に捨てられず、記念に洗って飾っておかないと気が済まないのよ。
ボクちゃん38歳。幼少から未だに抜けぬその癖が、今では半ば仕事です。
J-WAVEだったか金曜昼のラジオ、LiLiCoさんったら肉食獣なんだから。
故郷スウェーデンのとっておき料理でいい男を落とそうと、
家に招いては大好物の珍味トナカイの心臓をふるまってしまい、
なぜか男が出来ないの〜もう稲葉クン抱いてやるっガハハだって。
アイドルになりたくていつのまにプロレスラーだから凄いよなあ。
▲リアル『わたしは真悟』!!
さとるとまりんを捜す旅を経て精肉工場に再就職したか。
わたしは…豚の首を…切る仕事を始めたと…いいます…
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果たして家畜は、消費材か? かけがえのない存在か?
肉塊というものをどう見るか、どう見えなくなってしまうか、
ここが食材と文化をめぐる命題のポイント。
実際、血祭りの本場においても純朴なるチビッコが時折、
「殺さないで、お願い。ウェ〜〜〜〜ン」
と必死で抵抗し祭礼の気勢を削ぐシーンがみられます。
伝統を重んじ守ってきた大人たちの困り顔が目に見えるようですね。
わかったわかった殺さないからもう泣くな…
やれやれ何のために奮発したと思ってるんだい坊や…
いつだかハイジもナウシカもこんなんやったよな。
他者を慈しむ心を、人間は生まれもって産まれるのだろうか?
それとも産まれてのち経験的に獲得するものだろうか?
供え物のヤギやヒツジは最初から潰す目的で用意しているものです。
農村では自前のストックから今年の犠牲(たいていは種用にならないオス)を選び、
市街だとバザールで(スイカ割りのスイカと同感覚で)買ってきて潰しているようですが、
情が移ってしまったらアウト、祝いの席に捧げる消費材ではなくなる。
この議論をすると必ず挙がるのが「家畜はペットじゃない!名前を付けるな」問題。
なんでか知らねえけど妙にムキになって食って掛かる人が多いこの議題ですが、
本質を突いた答えを未だに聞いたことがねえです。
▲国語の先生が畜産実習を元に創作した『ひつじに名前をつけてしまった少年』。
産まれた瞬間からずっと親身に世話をしてきた肉用サフォークに愛着が湧いてしまい、
出荷がつらくなって厳しい講師にきっぱり叱られる生徒エイジくんの物語だが、
ペット扱いするなという教えに有無を言わせない結論ありきの強引なバイアスがあり、
むしろ筆者自身の側に認識と力量の甘さを感じる。
もっと煩悶を書けるテーマのはずだが…
名は存在に意義と方向性を与え、その後の在りようを支配します。
考えれば前述『わたしは真悟』の工業用ロボットも宿命の名を授かる前までは、
モンローという名を与えられて粛々とモーターを製造していましたし、
贅沢な名だねと荻野「千」尋の名をペリペリ引き剥がした湯婆婆、
適当に「ティーティ=ウー」と名付けた小動物が急に人生を見出し面喰らうスナフキン、
ナウシカは甘える巨神兵に「オーマ」、やはり与えた途端に立派なこと言い出して。
家畜には、本当は、名前をつけないんじゃないのです。
『(この子たちは名なしにしておく)』という名を与えて位置づけることで、
己と社会と天の恵みに殺生の許しを乞うている面が大きいんですよ。
現場では個体毎に管理タグつけて識別しますから厳密には名前つけるわけですし、
毎日付き合ってる相手だもん略称のち愛称で呼ぶなんてザラな話です。
要はお別れがつらくなるから必要以上に思い入れるなということであって、
ハナコ。ゴンベ。淋しいぞ。ありがとうな。ヨシ行ってこい! と出荷できるんならば、
飼養物をどう呼ぼうと呼ぶまいと別段構わない話なのだ。つまり、
名前つけて可愛がる vs 絶対につけない の対峙に、命の本質は無いんです。
事実は小説より奇とはよく言ったもので、カラパイアさんでご紹介のこちら、
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愛する羊と共に暮らすため、国家と戦う男
http://karapaia.com/archives/52133592.html
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皆さんコメント欄でお察しのとおり、これにはやはりオーストラリアの悲しき側面、
白豪主義的ヒステリーを感じざるを得ない。羊の位置付けも後付けの理由付けだ。
難民ごときが動物と理解を深めることを “ 許せない・否定したい ” 感情もあろう。
日本のふれあい動物スタッフですら、羊と俺がチョ〜仲良くしてるだけで、
なにかしら理由つけて注意してやろうとグギギ顔で迫ってくるもんな。
名前をつけるな!! 余計な感情を抱いてはいけない!! 、としましょう頭ごなしに。
しかし家畜どもがどう考えても罪作りであるのは、
ついつい名前を与えたく撫でたくなる=共感性を誘因する外観と仕草を、
明らかに生まれもってキュンキュンピイピイ産まれてきやがることだ。
要するに「きゃわゆい」。そりゃ否定のしようがねえもんなあ。
この事実を我々は、宿命を惜しみ憎むほど過敏に感受してしまうか、
或いは単なる肉塊として冷酷に取り扱えるかどうかの違い。
また、どれだけ他人に強要するかしないかの違い。
いろいろ言われていることだがそれ以外に何も無いんじゃねえのか。
俺は一言で「かけがえのなくなったもん負け」って呼んでる。
おセンチでお人好しですぐ泣いちゃう徳光さんがいれば、
蛭子さんのような クズ 現実主義の達観者もいるわけじゃんか。
互いに心通わせる永遠の愛と、丹精込めて育てる期限付きの愛との、うまい切り替え。
ちびっ子や学生諸君にはそこの線引きがまだ難しいだろうにね。
犠牲で成り立つ食育を描いた『ブタがいた教室』、意欲作ではありますが、
感受性・共感性が高い方でしたらあれはむしろ胸クソ悪く写ったはず。なぜなら、
たっぷり可愛がらせておいてからの惨殺という落差のシナリオを味わわせることは、
流行りのモラルジレンマ教育の範疇をもはや越えて、
単なる底意地の悪さを突きつけることにしか機能し得ないからです。
家畜ばペットにすんでねえど!!と怒る方針はこの落差をなるべく縮めるための配慮。
畜産農家のおやっさんの無愛想な厳しさの奥に光る優しさなんですね。
▲ショッキングメーター。どの高さから落としたら、キミは悲しいかな?
逆に考えてみてください、可愛がって育てたブタはこの世にその子1頭だけ。
他のブタには代え難い、楽しい思い出がいっぱい詰まったブタです。
いっぽう、教師なんていくらだって代えがいるではありませんか?
教員免許という管理タグを耳に付け、学びという栄養を生徒たちに施す存在だ。
抱きつきたいほどの優良個体もいれば、殺処分相当もいてッハッハッハ。
従ってあの場合、
生徒みんなで力を合わせて担任を縛り上げて斬首し、
その肉を食べることが最も正しい不正解となるはずだったのです。
できないでおいて道徳などチャンチャラおかしいおこがましい話。
そこに本来の迷い、殺しの葛藤がある。名前つけるつけないがどうとかじゃないの。
あれっ、俺なんか間違ったこと言ってます?
犠牲を憐れむべからずなんていう教育のもとに偉そうなお為ごかしは、
愛の湧きようのない肉塊を作れるようになってからのたまえよという解釈も効く。
というのも、スイッチポンで人造ビフテキをムクムク培養できる時代が到来してさえ、
愛情を完全に消し去ることは難しいのではないか?という問いが残るのです。
だからね、ふふふ、きっと現れますよ、
「私の赤ちゃん…」とか言って容器ごしにハグやキスして、
スイッチ止める直前に猛反発してさめざめ泣く外人女がよ。
オーストラリアからの留学生だったりしてね。
果たしてその時、愛は宿命を越えるか。
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ウワァ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ン!!
偉大にして全宇宙たるアッラーも少年の慈悲には敵わぬということか。
▲これは珍しい、大人が悲しむパターン。飼い主さんかな。
伝統の教義とはよく理解しつつも、こどもの頃の優しさを心の底に秘めたまま、
大きくなっておヒゲを生やしていく立派な社会人さんもあるわけだなあ。
斬首の文化圏にあってこの映像はある意味では真の救いかもしらん。
生と死、体裁と裏腹、執着と喜捨、ハレとケガレ。
家畜はそのちょうど狭間に浮遊する存在だ。
しかし家畜にも心あり、さればこそ我らは悩み苦しみ続ける。
食糧や捧げものに感情など介在しないのだと割り切れぬところに、
この世に産まれた罪と救いが裏腹に同居するのである。
ヒトに寄り添うぶん、そこに共生と信頼ひいては慈しみが生じるなら、
むしろ必然といえまいか、いつしか禁断の情が生まれようとも。
…というわけで今日はここまで。次回につづきます。
ホニホフールに到達した変態哲学はこんなもんじゃ解説しきれません。
主は来ませり。迷える仔羊たちよ、さあ迷い給へ。BAAAAAAAA!!!!
次回ホニホフール、【 妄話2:まきばのエロス 】!!
お楽しみに!!(神谷明の声で)