◆ インド発祥の多弦胡弓「サーランギー(Sarangi)」類の話題を中心に、世界でここだけ前代未聞の怪研究・珍開発の数々を発信し続ける異常ブログです。同楽器取扱いの急先鋒にして生物学者や変態ケモナーとしても知られる異常造形作家【川崎ピースケが執筆運営しています。
研究テーマ:1)楽器「サーランギー属」、2)海のダンゴムシの仲間「水産等脚目甲殻類」、3)多肉・塊根・平行、栽培から造花まで「珍奇植物」、4)原材料・愛玩対象としての「羊」 、5)獣人表現「ケモナー」 、等を題材としたデザイン論と実践、特に生物型や生物利用の意味について。議題は多岐に渡り、追究の範疇としてエログロを含みます。* 近年(2)〜(5)の構想がだいぶ具現化したので、2023年から(1)の分野に戻りアプローチを再開できる運びとなりました。
★ 1記事内1主題の場合と、1記事上に短文加筆を重ねる【近業掬イ】(きんぎょうすくい)の場合がある。繁忙時はどうしても後者です。
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平野レミの!!「アルダッロ・ツクーリァ」最終回・涅槃の巻(死に辛)《前編》




“私の壊れたダムニェンを修理してやるというので任せたらデタラメにされた!”
  と怒ってる人のブログを読んだことあって…ピースケさん…じゃ…ないですよね?

と尋ねられたことがあります。違う違う、知らない、そんなん俺じゃねえです
俺が携わるんなら打ち合わせを経て完ッ璧にやるし、怒る持ち主だったら直す前に説教だわ、
怒るだけの正統な解釈を存じてんなら人に任せないで自分で直しゃいいんだよ。
自分の愚かな判断、未熟な腕前の露呈を、正しい異文化理解ッ!で隠す人なんだろうか。
自分でなさいっつの。簡単だろうよダムニェン修理なんか。


★ キミ耐えられるか?! “民族音楽”研鑽の影の虚しさをドリドリモグモグえぐり抜き、埴谷雄高も面食らう、いまどき野比のび太ンちのママ的ガミガミくどくど説教耐久アワー「アルダッロ・ツクーリァ」は、じつに数ヶ月もの遥かなる編集期間を越えて、いいかげん今回で最終連載回になります、よかったね。

…ったく貴方たちっていうのはこの分野の考え方にからっきし能天気、ほんで自分のどこが能天気なのかわかってないのにすーぐ「まぁ端的にかいつまんで要約すると~」等々と逃げを打つ悪癖がありますから、この分野で世界的に鬼スゅッゴイ実力ある大先生サマサマがゆっくりじっくり解きほぐしておる次第にて候。ありがたく砂糖菓子でも戴きながら読み、ふいに思い出して動悸のち寛解するがよろしい…

…といった体裁を演じて煽動することにより、イラッの彼岸に明日の光を掴み取って戴ければと願っています。我々は、何者か。読み切れただけ、ご苦労さん。



さてダムニェン同様にこちら、


ネパールの観光土産ではないよ、インドの民謡だとか宗教歌の伴奏に使う、





相変わらず現地さまざまテキトーに呼ぶところの、セルジャ、セレンヂャ、
スリンダ、サリンダ、サァーーリンダァーーー
の類でございます。

(((何度直してもここが取れてしまうんじゃよ参ったのぅ…)))ってインド人の苦労が痕跡から伝わりますね。
そりゃそうさな、こんな作り方・直し方じゃ、また壊れるに決まってるじゃんかい。

意匠としてはピカイチの魅惑ですが構造や施工としてはだいぶ問題があります。
重い木から彫った重たい胴と頭をこの細い首の接合だけで支えようってんですから。
しかもそこへ鉄ワイヤー3本ギンギンに張り巡らせようってんですから問題なのだ。


さて問題はだ、この時どの問題方向に問題の力が掛かるかが問題です。
問題!( ♪デデン!! ) 緩やかに川を流れてきた棒きれがこんな感じで、

川底に突っ張っている杭にトコツンと当たった時どうなるか。
当たりどころによろうし、多くの場合かすって流れていくだろうけれども、
ちょっとした出っ張りに引っ掛かり気味に当たることによって、

水流に押されてグイーンと迂回ぎみに傾いて流れていくパターンがあるだろ。
或いは、引っ掛かったまま妙にバランスよく留まっちゃう場合もあるよな。
ほんのちょっとの当たりどころで力の掛かり方が変わり、
ほんのちょっとの力の掛かり方で運動が大きく変わるんですね。

といったような考え方で、

【別個部品である楽器の頭と胴が、接面しながら弦の張力で引き合うとき、
 全体にどのような構的造不具合が生じ、封じるにはどうする?】

という状況に迫られたとする。当然、弦の張りに促されるようとして、

ヘッド部を手前に ‘開こうとする向きの力’ が出る。
ってことはその開始点が急所なわけだろ。ですからこの構造では、

ここ↑に開き止めのつっかえ棒を内蔵して急所を殺せばだいぶ強い構造になる。
弦の張力は埋め込んだ棒の突き込み方向の力に成り代わり、開こうとする力を止めるのだ。

ええ、そんな一手で格段に強くなるんです。
建築や内外装施工オッチャン職人現場の符牒ではこの構造をダボ、働きを閂(かんぬき)と呼び、
接合面が相互にずれてダボや閂が破断する危険についてはギロチンと例えて嫌います。

バガヤロ、こゆのぁイチバン力掛かッとこにダボ入れてカンヌキすんのよ、
ダボぁメカクシすっとこだからナンでもいいのヨ、弱ぇとギロッツンしちまッからナ、
サトシ! ダボ切っとけ、ゴミリのボーッキレでヨ、トーミリもいらねぇゾ…
、云々。
スマホくりくり令和キッズにこんな符牒はもはや外国語。

またダボをこの方向↓にカンヌキするのは、

ギロチンしづらく仕上がり強度が良いからです。
木の繊維は強いもので、繊維に沿う力にはピキンパリンと割れ易いが、
繊維を横断しようとする向きの力に対してはグニニと耐えてくれる。
“わりばし” はその叡智を応用した素晴らしい道具です。

もちろんこのダボ1本だけでは不完全ですよ、とくに左右からの衝撃には弱い。
といって、外にガネ(当て金・金折)巻かせて補強はどうだ?との意見を頂戴するやもしれないが、

ガネ丸出しじゃいかにもホームセンター丸出しで格好悪いし、演奏時にイヤな手触りになるし、

こういう↑動きになって結局ガタつく心配が出る。なにせ相手が脆い古木材ですからね。
弦楽器のネックに金具ガッチャコのあげくガタガタじゃ野暮でしょ。

その代わり、反対側に振れ止めのハンダボ(半だぼ)を入れることにした。
本来ならアリツギ(蟻継)が確実だが相手の材がグズグズでは無意味な造作になりかねんからな。

で、ツナギに強いエポキシ浸ませて咬ませれば、

ダボ1. 5本という、外観に影響しない最低限の手入れで充分に強くなる。

家具のように荷重のかかる構造体ではダボを効果的位置に複数本打つが、
今回は打てる場所が狭いし、仕上がり品がヒネリに強くなる反面、作る時に融通が利きづらい。
センターすら出てない造形物だから多少遊ばせながら辻褄を合わせるのよ。
弦を張ると食い込んでいく力の掛かる位置でもあるから、さほど強固にせずともよろしい。

元どおりの正統インド式工法にしなくていいのかって?
じゃ接合前の写真をもっかい見てくれよ。
崩れた傷口から読み取れるように、インド人はニカワのような弱い糊に加え、
この↓方向に釘を2発打ってどうにか頑張ったようなのだが、

 腐食しきった鉄クギ穴位置を当方真鍮クギで示す図

これでは釘の軸のスベ面と木材の繊維との摩擦力ばかりに耐久性を頼ることになるうえ、
先↑にお話ししました ‘開こうとする向きの力’ がそのままクギ抜きバールの力の掛かり方に変換されるので、

ちょっと小突かれた程度の動きでガタきちゃうんだよ、だからこれはこうやって再び壊れたわけ。
だいいち古木製品を湿った倉庫に長期保管すれば鉄部品なんかグズグズ。なお壊れて必然さね。

インドのやり方に従いクギ打ち直しで修復するべきだ!と皆さんは仰りたいでしょ、
後々を考えてもこの方向へクギを打ち込むべきでないし実際ノークギで直るんですもん。

素材特性と構造力学なの、こういうのは。正確な知識や理解や修行云々は前提のうえ二の次三の次。
かつ民族工芸ってのは構造の安心をすっ飛ばして芸術したがるものですから、
何を良しとし何をやらんとしたものかセンスを読み取ってふさわしい施工をすりゃOKなんであって、
現地で正統な先生にナニを何年学んで年間何本ライブやるかじゃないのよ。

不貞腐れる識者各位、じゃあ逆に聞くけど、この修理法をインド音楽の巨匠の誰グルジに教わるわけ?
でなきゃネイティブアメリカンの長老のお智慧? アフリカのグリオの村長の叡智?

いいじゃないですか、現に壊れていたネックはこのとおィィィェエヤアァーーーッ!!!!

 少し力を加えたぐらいでは、

 びくともしない、

 確かな強度のある修繕に至りました。

 コワレテナイヨ!
           \しょし/

44歳ヤングマンがナウでヤングに振り回しても馬場チョップしても、
膝蹴りしたって大丈夫!これなら弦を張っても安心DA.YO.NE♪ チョベリグ

…とは、むろん表現上の演出です。今、楽器は大切に!とか神が宿る!とか野暮を仰らないこと。
乱暴にして壊すんだったらわざわざ買って直さねーだろうがっつの。


さて、本来でしたら接合後、外面を共に削り上げて整合面の段差を無くする作業、
通称ツライチを施したいところなのですが、

今回は敢えてやらない、このまま。
ユーズドのヴィンテージでアンティークな風合いを殺すことになるので。

これすごーーーーく大事な感性でね、アジアやアフリカのプリミティブアートというのは、
こういう下手くそガタクソンが美の鑑賞ポイント
なんよ。
見た目は粗大に朽ち腐れ、オンボローニャでズッタボローのガッータピィッシュに見えても、
しっかり実用強度に達しておればよく、じっさい実用に耐えてんなら尚よいのである。
単なるレトロ懐古・侘び寂び論・モッタイナイ運動におさまらない美がそこに生じるのだ。
こういう選択センスこそが、民藝美術に精通したプロと、巷の楽器作り趣味デスおじさんとの明確な違い。
趣味デスおじさんに頼むと得てしてツライチ以上に削って元来の良さを消しちまううえ、
ホームセンターの茶色いペンキまんま1色で一様に塗っちゃう。そういうセンスがダサいの。

極め付けには頭頂の謎バードの装飾の横っ腹に、

勝手にドリルとリーマでドカ穴あけて、勝手なペグを取り付けることにしました。
あ〜あ…貴重な民俗資料に… しょうがないだろ元からペグ無かったんだから。

アジア楽器のジャンク部品を大量にお譲りくださる機会を過去に幾度か賜り、
これはその際に同梱の謎棒なのだが、これ楽器用ペグでなく紡ぎか織りの用具じゃねえかな?
どうせ使えんからと捨てるんだったらこれらを改めて楽器用に調整することに。
図↑のように中空パイプ状の穴を細い丸棒とボンドで埋め、ガスコンロで燃やして煤っぽい味を付ける。

出来上がった焦げ棒を早速差し込んだら…

いかがですか。まるで元々こうだったかのようでしょ。

元々こうだったかのように演出するのが腕前です。
ペグが4本とも同じでないことで鳥部分が強調される。

あ〜あ…貴重な民俗資料だったのに、もっと良くなっちゃったじゃん。
いえいえ、楽器はツクーリァれちまえば此の世にもうアルダッロ。
現地まま・資料入手時ままを死守して結局何もできないのとでは大違い。
こりがオレ流・古い楽器を大切に受け継ぎ扱う心意気だ。

孔雀の羽をつけたら一層ゴージャスになるかな。
どういう風に仕上がるかは、来年以降の紹介をお楽しみに。


なになに?
 

インドサ〜リンダ〜を4弦楽器にすることは間違っている?
民族本来の風習を踏みにじり破壊する行為? 貴重な現地資料的価値の逸失?
土着インド人がインド製の釘を使いインド製の接着剤で直したのでなく、
おまけに日本人が勝手な解釈で勝手な改造をしてしまっては、
インド楽器ひいてはインド物質文化としての意味が失われる? 
まして孔雀の羽を付けるなんて決してあってはならない慇懃無礼

相変わらずだねえ。これは、

「インドの材と技で修理失敗しているゴミを日本人が直した」
っていう事実の文化記録資料なの。どうしてそのまま受け留めることができない?

だったらいいかい、仮にだよ、

およそ150年前、楽器たずさえ森の神々に祈りを捧げて幾年月のインドの賢僧、
ムシュトリーアミ・チョウバッタトリヤ師がいらっしゃったとして、

さしずめ、うっかり壊してんだよ。修理が試みられて、やっぱり壊れてんだよ。
楽器だけが流れ流れて今、インドどころか外国行ったこともない日本の怪僧ピスケーチンが、
これを蘇らせ、弾いて森の神々に祈るべく、がっちり直してんだわ。

このとき、起きている事象をどうして素直にありのままに捉えられない?
民族文化とは正しくどーのこーの、本物?or偽物? でしかモノを考えられない?
考えられない貴方達になんの御託を並べる隙や権利がある?
ろくに関われない分際で、クソして寝てろって話じゃんか!
うっかり・がっちり・クソして寝てろって話じゃんか!
寿司・鳥・風呂・寝ろって話じゃんか!


見えてくるのはすごーく根深い、我々の固定観念ではなかろうかしらな…

海外には日本ではみられない素晴らしい造形がたくさんありますが、
海外人が必死に直してやっぱり壊れた楽器が日本人の材と手でバチンと直ったのなら、
今この点に限っては日本の技術のおかげでどうにか復活したわけです。
なのになぜそうまで貴方は、日本人が手を出したらば全て偽物だインチキとお考えになり、
海外文化ばかり正当化神格化し、日本の手業を卑下してやまないのですか?

それは、やれ、例えばインドの楽器を習い身につけようと願うなら必ず、
神秘インドに傾倒し滞在し、神秘インド服を着て神秘インド飯を食い、
神秘インド式修行を経て神秘インド楽器職人より奥義を授からねば、
神秘インド楽器を直すことも、ましてイチから創ることなど畏れ多く、
愚かな日本人の独学では決して届かない… 自国文化を捨ててまでひれ伏さなければならない…と、
偽物愚民横並び至上教育・常識を植え付けられてきた
からですよ。

楽器製作は伝統の職人に習い、正式な方法で修理しなければ、とお考えでしょ?
そっちが大きな勘違い。偽物愚民横並び至上教育せずには扱いに困る筋があるのやもしらむ。
その考え方自体がまるっと酷い強迫、アイデンティティの希薄さだと気がついてくれ。
自身のダメさを他民族文化の輝きで補填して自国民族を貶めなさるんじゃあねいの!


ま、弾く義務さえねーのですけどね。すなわちかくあらん、
専門知識がなく… 修理は知識ある人でないと… オブジェとして…と敬遠された楽器は、

残骸が残骸のまま歌を忘れたまま、いつまでも古物に遺ってしまい、ウチ来てるわけ。
そのくせ新品がジャンジャカ輸入販売されてるよね、どうせ手放すのに。
ブームに踊らされてシベリアンハスキー飼ってもどうせ保健所送りだのに。
おかげさんで俺、まるで動物楽器のお医者さん。ヨシッ毛刈りだ・漆原教授。
専門知識と技術がある人がやるしかないわけで、それが俺だというわけです。


なになに?なんですと?
そんな程度の修理なら誰でも出来るって?
楽器の専門家なら当然知ってるし誰でもカンタンにこなせる常識?
 同じ写真使い回し

ええもちろん、こんなん今の時代その気になりゃ俺じゃなくたって直せるし、
どうすりゃ直るかな?ぐらいパッと見で分かるだろっつの普通に。

でも、誰でも出来るはずのその修理を貴方はやってないし、こなかったし、
ピースケに開示されるまでやり方知らんかったんじゃないの?!
ダボ・ハンダボ・アリツギ・グズグズ・カンヌキ・ギロチン・メカクシ・トーミリ・ガネ・
バール・ツナギ、エポキシ・ツライチ・融通・遊び・辻褄、各々なんのことか分からねえで、
どんな素材や状態へのどういう力の掛かり方か、通じねえでいけしゃあしゃあと「日本を代表する奏者」?


で、あまッさえ、今このブログ読んで初めて知った情報をだ、

「インド民族楽器のサリンダはこの部分にダボまたはカンヌキを入れると直るんです!
 ダボに掛かる力を業界用語でギロチンっていうんです!知っていましたか?
 無知な日本人には計り知れない民族楽器の知恵、いかがでしたか? 勉強になりましたか? 
 よろしければチャンネル登録を…」

と自分発信知ったかソースに変換しちゃうんだろ? 民族楽器好きっ子っていうのは。

難しく見えて驚くほど簡単なんです! 徹底解説!

そりゃ使い方オレが書いとるわけやもんし

まるで自分でも当然最初から知ってました!勿論作れます!唯一専門家ヅラで自他を騙し、
紹介者・解説者の優位に妄想を勝手に膨らませるんだから、すごいよなあ〜。
形だけ俺の真似して頓珍漢な扱いをしている人や例を幾つも拝見してきました。


この手合いは、おおピースケさん助かるわ~参考にさせてもらお!とは決して言わないし、
じっさいガッツリ参考にして演奏に活かしていることを隠し、ピースケの名も出さない。
その位置関係自体が自らの理想像を崩す劣等感、配下にある状況を許せない劣位、らしいのね。
同等以上であると自己欺瞞し、自己錯覚するために、いま仕入れた情報をそっくりパクって自前を気取る。
みな平等ヨーイドンからのイチバン狙い知識ポケモンバトル競争!、
ピースケは同じ日本人だから自分とスタートラインが同じはず!、
負けるもんか!自分こそ日本唯一の代表!…と焦る歪んだ自己同一性が既におかしいのに。

劣等感を回避したいがために情報源ソース(誰の発信をどこでどう得たか)をも切り捨て、
自力の発信のように広報せんことには魂が苦しく、博識を披露するけれど、
偉大なる自分の生んだ博識ソースだと自分を騙して信じきってしまっているから、
周り回って遂には1次ソースケ大先生にまで得意げに知識自慢してしまうんだよな。

〈知識ないので手を出せない!+ 日本人が手を入れたら偽物!+ 他人が妬ましい!〉
のトリプル効果で何も手出しできない結果、残骸が残骸のまま、歌を忘れたままに、
貴重な楽器がいつま~でもこうやってガラクタリスティックに残っちまうんじゃないのか。で、
〈屈辱的な劣等感… →を瞬時に→ とっくに正確に知ってる!優越誇示に転換〉しないといられない、
逐一イラッの感情があるとすればそこ自体に認知の幼い歪みがあるといえるし、
丸パクリ紹介者を気取ったところで自分の頭で考えない態度に変わりはないのである。

例えばサーランギー音楽について親しむとき、皆さんはつい&当然に、
“インド古典器楽およびネパール民謡器楽への正しい理解・正しい再現こそ至高” と捉えなければ、
本国からインチキをとがめられ叱られ罰され偽物の烙印を押されてしまうものと怯える。
私たち無能偽物日本人は外野から既存コンテンツに寄り添うことかできない…と思い込み、
由緒ある現地モデルの直輸入こそが最上級かつ最高級すなわち正しい親しみの道…と信じ込んで、
そこへの食い込み方の正統さ正確さ・理解度の競争こそが民族器楽的正攻法と合点してしまうのだ。

ところが “川崎ピースケ氏考察・民具サーランギーにおける日本の過去-現在-未来” は、
当該分野の第一人者の発想力と技術力に裏打ちされた突如面白コンテンツそのものであるので、
借り物奴隷根性を党是とする皆さんには判断材料に乏しく、理解の太刀打ちどころか刀が届かない。
どう評価されてるか分からないからどう評価していいか分からないのに、なんだか面白スゴイ。
理解できない心を、どうせ発信者の人格がおかしいからだと嫌うことで、どうにか腑に落とそうとする。

世界文化の踏襲こそが存在価値と信じてやまない民族楽器ィヤー各位はこの構図を嫌います。
輸入した表現形式を無智無芸日本愚民に有難がられたい!ところに初めて商売が成り立つのに、
もっと魅力的な表現性をもつ日本土着民が居られては自己の稀少性の確立に困るからです。
つまるところ「 (((自分で自分の世界を打ち出す才能が無いから珍しい民族楽器に頼ったのに、
コイツはスゲェぜと現地人からも褒められる才能を持ってる奴はムカつく))) 」
という個人感情を、
言い訳せんがために ‘珍しい楽器’ というお為ごかした大義名分を欲しがらねばならないとすれば、
じつにその感情こそ自己の無能を熟知し絶望している証左なのだから。
その拘り・負けん気の理由が、自己に属する根拠ない偽物の自覚だと、内心お気づきでは?

ライバルを蹴落とすように争って、日本きっての楽器王を目指す競争はよいけれど…

ピースケ氏はその優勝トロフィー自体を創れてしまう立場にあるわけで…
オリジナル楽器を作らせゲットすれば即席一番になれるわけじゃないんだよ…

かくしてピースケなる野郎の存在や実行力を無視したくても気になる嫉妬羨望、
どう理解を整理していいやら分からない混乱、肥大したプライドとの整合を取れない感情がこじれ、
偉大な文化の数少ない担い手である自分は全面的に認められ許されて当然なのに!! 、
同じ業界で頑張ってるモノ同士なんだから無料で楽器を作らせて当然なのに!! と、
甘えとともにねじれ上がり、結果ピースケに対しどう出るかというと…


\やいやい、おまえ、マブダチになれ。だからタダで楽器作れ。/

“自分の専属楽器スタッフ・舎弟として雑に扱ってやる” とばかりに、
子供じみた征服欲を滲ませてギクシャクと親友になり利用してやろうとする
んです。
有難いことなんだけれど…いやもう色々と個性的な方がおいでで。ハ?何で?と驚くばかり。

あのね、俺は単なる楽器サービスマンでも劣等感の依存窓口でもないし、
誰を悔しがらせる自慢ゥンティングのために突飛な楽器を作ってるわけでもないの。
何が出来るか日々挑戦してる一人の芸術家であり、民族文化史的には “当事者” なんですよ。
競争したってしょうがないし、競争にならないじゃないのよ。

なおも “正統な理解者” 然と虚勢を張る人、“不勉強”に怯え敬遠する人ばかりなのは、
もはや“当事者” たり得ぬ己の無力を “正しい解説” をもって代償せんとする隷従の態度に他ならない。
楽器を創り奏でるという多様な自由営為を私に向けてグヌヌねじらせている余暇があるならば、
己の存在意義にこそ照らすべきで、かく申す私もまた誰と較べず既にやっているのだ。


 \ガイジン様の完コピだけが取り柄のない私めらの唯一の生きがいにございます〜/

 /素晴らしい異文化を授けてくださり有難き幸せの極みでございます〜\

現地!本物!と他文化圏を学び崇め奉るのは結構だけど、
その文化圏の只中にありし当の賢僧チョウバッタトリヤ師がどう思うかは別だわな。
神秘の有り難みばかりを神秘的に有り難がるくせに、師の使い倒した楽器をお飾りジャンク扱いにしてる、
日本の諸外国文化ファンの浅はかさを果たして喜んで戴けるのかしら?

どうせなら、

  \大事に使え!/
 <同じ日本人のくせにギギ!!!

なんや直して使うてくれてはんねゃ~♪ 使うたって~♪ 言わしたろやないの。

他民族楽器の製作修理を日本の道理に基づいて行って差し支えないだけでなく、
鳴らす曲は日本の歌でもよろしいし、いっそ自分の作った歌でさえ結構なんです。
渡航者や学者はそうした国際現象をそのまーんま歴史と認識すれば差し支えない話。
だのに、心遊びの不器用さゆえ遊び心を許さぬ人間ほど ‘理解’ の正当性や正統性にしがみつき、
楽器表現という営為の本来の流動を腐らせてしまう。


とはいえ、古き良き風合いと楽器としての実動性を兼ね備えた修復というのは、
基礎および専門の技術経験をそれなりに要するのは確か。あんまし丸くそ自己流すぎてもな。
きちんとした扱いを多少なり心得た上で、かつ自分で創作し実演出来るのが望ましいですね。
出来らぁ!を鵜呑みにして材や構造に不適合な接着剤ベッタクソクソをたくさん見てきました。

なにせもうこの界隈、やれ、海外に無知無理解な日本人はすすんで国際文化を理解すべき!、
紹介する自分に対しては無料奉仕するのが当たり前だ!金取るなんて卑怯!と息巻いて、
ピースケに当然顔でタダ働きを迫り、おいおいなんぼサービスでも材料費ぐらいは負担しろよと叱られ、
願望叶わず不貞腐れて、傷ついた!二度と頼まない!ピースケは悪!とこの勢い。
端的に言ってバk…………………イ…タリティのある…と申しますか、なんとも。


或いはピースケさんがいかにも変わった楽器を独自のやり方で親しんでいるとみるや、

きっと自分の楽器活動も喜んで褒めてくれてタダで楽器作ってくれるに違いない!と意気込むも、
思ったような好反応を示してくれず認めてくれず、ガッカリ… イライラ… ムカムカ…
楽器をダシにして自分に利用されて当然なのに!利用させない奴は敵!批判は悪!とやっぱりこの調子だ。
ピースケさんが驚いてくれるレベルまで自分が至り達してないっていう客観だけは見事にすっ飛ばすよね。


繰り返しになりますが、ええ幾度でも申します。

民族楽器ってそういうものじゃないんですよ。

皆さんこぞってベキベキ論を張るこのコンテンツ群は元来、あくまで他人様の営為であり、
貴方が頑張って身につけたからといって貴方が我を張ってよい性質のものではなければ、
蒐集・陳列を愉しむ目的で存在しているのでもないし、自己実現を約束する道具でさえない
のよ。
自己同一性の履き違えに気づき、もがき、では本当の自己から生きる意味を生み出さんとし、
掴み取った時ようやく民としての自我確立が叶う。この答えの多様さや意外性の鳥瞰こそが "民族" 楽器だ。
他人様の成果を集めて並べて較べて真似て鳴らすだけでは何も創り得ていないのだから。



…じゃあどうしたらいいッていうわけ?

忘れてくれるな同好の士、酷い言い草を承知で提言するが、まず、

 「自国文化圏でパッとしない己の惨めさを、
  諸国文化紹介のプロの仮面で隠すな」

まずはここからじゃないかな、いったん目を覚まして。
この視点に帰ることがニッポン民族器楽的ネクストステージへの第一歩、
ここの謙虚さ、ここを経ての昇華が、めッッちゃ大事じゃないかと思ってる。

(((自分には取り柄が無いし…何かを紹介することが生きる意味、心の支えかな…)))
と内心に志すまではよいが、だからって競争の少ないどこぞの稀少民族楽器に取り組んでみせ、
現地愛や本格性を褒められたところで、本当の貴方自身の存在理由にはならないということです。
様式を自らに照らしても、借り物の叡智を自らの発明の如くに語ることなかれ。
自分が自国で何者でもないという裏返しから、他国の他国らしさで虚無を埋め合わせようとする。
まして「日本を代表する奏者」? これほど愚かしい自己陶酔もない。
ガイジン風情に助けてもらわねば自国に居場所の無い社会不適合者だよ!

民族楽器は諸国における有名無名の職能が遺し積み上げてきた痕跡であると同時に、
自分たちが何者であるかを照らしながら独自のデザインで改良を重ねた蓄積である。
ただし決して諸君の文化的無能を補填し代弁し証明を約束するためには存在してはいないのだ。

従って既存のジェンベ、ケーナ、サーランギーを並べて奏でて満足することなかれ。
他者の評価に溺れることなく、地に足をつけ、己の血と臓物の内から、
己だけの音具、すなわち独力のズォンボ、創作のカーニ、未来のセーロンガーを引き摺り出さん!
其々がどんな形をし、どんな音を出すかは、知らん。だってみんなの心の中に潜んでいるわけだからな。


なんだ?なんだっつーんだ?

一億総愚民の日本人がそんな大それたことを出来るわけない?
伝統を無視して好きに自作していいなら苦労はしない?
やり方を誰かに教えてもらわないと自分だけのちゃんとした楽器なんて作れない?
だから既存の珍楽器をやり始めたのに、習わずに自由に創れるなんてギギギ?

悪かったな、俺はそこを地でやってどうにか生きてる、単なる既存サーランギー奏者ではない
日本唯一プロの新進セーロンガー演奏家にして気鋭ソールンゲー製作者にして独創シーレンゴー研究者だ。
本家本元本流サーランギーに拘泥するばかりの自称インド文化代弁者と、
サーランギー・セーロンガー・ソールンゲー・シーレンゴーが自身から飛び出す芸術家とでは、
存在階級が異なるのである。悪かったな。正論ガーにして、これほど愚かしい自己陶酔もないが…

なお ‘スーランドー’ と呼ばれる楽器は実在する。

実体は全くサリンダで、せいぜい方言での呼び名です。蘊蓄御免被る。


無論、勝手な改造や創作をあたかも稀少な伝統かのように嘘の喧伝陳列をすること、
例えば私が勝手に改造したネパーリーサーランギーを「現地で発掘した珍品!」とうそぶいて騙し、
とりわけ高値で売り捌くようなことはいけません、これでは歴と詐欺的捏造にあたります。
どんな仕事を施され出回った品物かをよくよく見抜く鑑定眼が必要です。

が一方で、専門的な知見をはみ出すことは一切許されない!などといった縛りの元々ない分野、
とりわけ個人で楽しむ場合にあっては、改造創作を怖がる必要もないはずではないか。
現代インド古典音楽式を含め、全サランギ全サリンダは様々に自由な個人改造の上に成り立っているが、
この分野における日本人の造形ポテンシャルは現状0%に近く、先駆けがピースケさんというわけ。
形だけ真似て彫ることは出来ても、さらにどう工夫を加えるかについて実際からッきしではないですか。
先駆者をキチガイ呼ばわりして己の無智を慰め後々しれっとパクる態度、文化人類のもはやお家芸と申せます。


ならば、皆さんが承服すべき正当な認識とはなにか。じつに、
「様々な改造の上に成り立っているサーランギーの伝統的な創造性にならい、
 この分野の先駆者である日本人作家・川崎ピースケ氏が直々にメンテナンスした貴重な個体である」
という正確な情報以外、理解や評価の選択肢の持ちようが無い
ではありませんか。
お感じになるご感想はあくまで個人感情であって実際の事柄とは無関係のはずですし、
日本人が平均的無能の愚か者揃いでしかないのだ!と仰るのなら尚のこと、
私情を入れて判断せず、芸術家ピースケ氏が為す事実をまんま理解しておけばよい。

のにギギギ仰る「現地仕様を日本人が変えてしまったら資料価値を失う」とはどういう自己判断で?
なんで楽器を弾けも作れも歌えもしねえのに通ぶって勝手な真贋やら解釈を加えてんの?
都合の悪い事実を無視すんの? 口先だけのご高論にどれほどの価値や権威性があるの?


日本サーランギー類の縦横無尽な派生というコンテンツについて、
「優れた海外の本流を習ってこそ本物!日本製の自己流なんて亜流で下流の偽物!」
と幼稚な観念でしか捉えられないレベルの貴方たちは、余計な思い込みをあれこれ加えず事実をまま、
つまり諸外国に頼らずともプロ級に作れて直せて弾けて歌えて国内外からの評価が高い専門家、
ピースケ大先生サマサマの意見に従うよりほかにそもそも判断の資格も免許もなければ、
いちいちイラッムカッと反発なさる判断の素質も力量もない
わけなんだよ。
それ以上文句おありならインド行かずにサーランギー創って弾いて、
ヤバイ日本人が居ると知らんインド人やらガイジンやらに存在を知られて、
自分に作ってクレクレ乞われて全部断ってみてはいかがですかっつの!

楽器はあくまで祈りの雛形であり、叶えてやらんがためにサランガ拵えてねえんです。
何者やら知れない何者と、何者かになりたい何者でもない者との、煩悩の暴流。
煽動を先導の船頭に、楽器を小脇にやる気・元気・井脇!
自己を奮い立てみごと彼岸を達せられるか否かが人生の勝負であるのに、
サーランギータのパーラーミータ、少し共鳴弦が多いからって蜘蛛の糸よとしがみ付き、
隣のシヴァ府に心酔するばかりだから、で・お前は?という煩悶の波紋に浸水されるのだ。

借り物人生主義は ‘自分は偽物’という現実を徹底的に避けねば自我崩壊する危うさを孕む。
‘本物になりたい’ 欲求は一種の弱さであり、崩壊はむしろ再生のスタートラインともいえる。



…ようわからん? 観念的・形而上的な理念展開は思考停止しちゃうか。

じゃ、もっと解り易く身につまされる以下↓のような角度から、
で・お前は何者だ?のパラドックスをご理解戴こうまいか。
民族楽器奏者たちよ、深く浸るのは結構だけれどもうすこしばかり自己をメタ認知をしようまいか。
業界の誰も自国民族としての無才を重々承知のうえ、代替に他国の営為を身につけ武器にし、
乞食(こつじき)スレスレ活動でやっとこさっとこ自己を維持しているのだとすれば。

そのカリカチュアを引き受ける権化としてこんな↓架空人物にご登場願おう。
界隈の皆さんが民族楽器を弾きたい披露したいエナジーの根源、
アイデンティティの終着点を顕在化するに、おおよそこういった↓キャラ設定なのです。
他人と違う自分を目指し、こうなりたくてなりたくて仕方がないのでは?

 ↓
 ↓
 ↓
 ↓
 ↓

日本でただ一人、日本唯一の、日本でこの人しかしない、
日本で唯一人ずば抜け、日本人離れしたプロフェッショナル日本人ドロドブス奏者、

土武川ドブ之丞 Dobugawa Dobunojou 先生!

「日本人には “ドブスの心” が足りません。私は第二の故郷ドブスタン共和国より正式に認められ、愚かな日本低国に “ドブスの心” を伝えるのを使命とする文化大使です。無知な皆さん、私の楽器の音色とともに “地下水脈の神・ドブ” へ感謝の心を伝えませんか」


ピースケ?…ああ…フンっ…嘆かわしい… 穢らわしい… 生理的に受け付けん…ま、あの方は一人で騒いで素人なりに亜流の自己流でやっているようですね。私の属する本流とは大きくかけ離れた中途半端な俗物で、 “ドブスの心” が有ると無いとでは雲泥の差があります。才能に恵まれた音楽家系の私でも10年かかりましたから独学は難しいです。揃いも揃って無知無能な日本人の皆さんを含め、やはり本流のもとに学んでこそ本物といえるのです」

\Dobuxe〜,Messa xxe〜♪/
【ドブ之丞先生プロフィール】
ドブスタン共和国の祈祷師が古より降霊に用いる、最も神聖な伝統楽器「ドロドブス」の唯一の日本人奏者ヤマハエレクトーン教室講師の母の影響で幼少よりピアノを習う。ドブスタン人ドロドブス奏者、ゲスィクセ・オェップ・ゲロ氏CDの妙技に衝撃を受けて大学を中退、首都オスイマステンケン市に渡ってゲロ氏より超絶技巧ドブソージュ奏法を直接に授かり、2017年ドブス芸術コンテストで ‘黄金のドブス賞’ を受賞。日本人離れしたテクニックに現地ドブロイド紙は「ドブスタィニェン以上にドブス」と絶賛した。帰国後はソロ活動のほか、ドブロギター奏者・堂布ドブ郎氏とのデュオ「DOBあんどDOB」でも活躍している。

★メジャーシーン待望の!【DOBあんどDOB・東京~京都どぶ板ツアー】来てね!
12/08(金) 19:00 @陶や金継 ¥3600-
12/10(日) 19:30 @饅頭房 ¥3200-
12/16(土) 19:00 @禿げたら尻に髭生えて ¥3600-
12/17(日) 18:30 @泣濡ル蟹ト戯ル ¥3300-
12/23(土) 15:30 @任侠楽器イレズミ ¥3200-

★CD『River of DOB~大いなる流れ~ 』も絶賛発売中!

民族楽器ドロドブスの購入やレッスン希望も受け付けています!現地ドブスタンでも弾いている人が少なくなった珍しい楽器で、日本を代表する奏者・土武川ドブ之丞先生は現地でも貴重な存在とされています!レッスンを受ければ友達に自慢できること間違いなし!

お問合せ・ファンレターはオスイマステンケン文化交流事務局まで!

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…やあ、あるある、っつか、まんま。わかるっしょ、みんな概ねこんなプロフ欄やもんな。

あのさぁ…

な~んで民族楽器ィヤー各位は揃ってこういう一辺倒な人となりに収まっていくのだ?
日本ではッ!日本ではッ!第一人者とか唯一とか代表とか追随を許さぬとか、なんとか賞とか、
著名ホールで著名人とライブ多数、とかいった分かりやすい文言にホントほとほと弱いよねー。
結局は飾る錦、威張れる権威の ‘記号’ が大事な武器ってことやんな。
根本的にズレているように思えてなりません。なにかこう、

(誰とも違う本物を識る本物の私が… 偽物でしかないオマエら敗戦日本愚民に…

 真の国際理解たるものを授けてやるのです… 有り難く平伏せよ…)

と優越できるセールスポイント欲しさが見え隠れた、結局あんたいったい何様やら。
自分磨きってそういうところに使うんだったのかい?

日本人は云々・独学の自己流は中途半端な偽物で亜流の俗物・本流こそ本物
といったニュアンスのアピール文言が毎度滲むところには、そう滲ませてみせないことには、
自己の存在意義が成立し得ない或る種の強がりを却って感じられてなりません。
決して自分だけは衆愚ニッポン民の一員ではない! 自分だけは決して自惚れでない!
他者認識・他者理解・他者評価の中に在り教義を広くもたらすことが存在意義だ!と信じつつ、
実際はこんな紋切り型な “文化の代弁者” 的存在位置に自己を収めたくてしょうがない、
高い地位が欲しくてしょうがない、アピールせずにはいられないとこ、あるのか。アルダッロ。

そこがじつに “型” だ!
“恥ずかしい日本人” が、確立された特殊な “何者か” になれる “何者か” を装いたいがために、
“何者か” ポジになれて・装えて・居座れる、テンプレートとしての他国文化を欲しがってる。
“日本人離れした” なる文言自体、誰あろう日本人に向けた蔑視アピールに他ならない。
我ら衆愚日本人とは飛び抜けて違う国際理解者ですねェ〜凄いなァ〜と褒められ、
ムフフン嬉しがりたいところに、結局は紋切り型の人物像への依存にひねりあがっていく。
そう収まりたいが為に競技人口の少ない珍文化を仕入れようとするならば、
自己実現にすり替えて、実態は単に輸入運搬業者の有り体をである。
猿真似だとビゴーに辛辣な風刺を描かれた鹿鳴館外交の頃から性根は変わってねえのかもしらんな。

そんな不埒な決意でやっていないモン!と焦って否定したい奏者各位、さて本心はどうかな?
他人の目など気にせず較べず自分のやりたいことを一心に!と、
尤もらしく諭されて久しい昨今界隈ですが、他人に披露せんがための外来コンテンツの場合、
最終的にやはりメッチャ他者の評価の目に依存した虚像の雛形に収まらざるを得ないならば、
外国の流儀に自己を投影しすぎる人生もまた考えものだと思い至っています。
元来、そうも惚れ込んだ外国になら、祖国の誰知らず身柄を受け入れられ、誰知らず溶け込み、
誰知らず死ねれば幸せなはずだのを、褒められたいがためにわざわざ祖国に持ち帰ってみせる。

 権威の付けヒゲ

この時、よい演奏を続けるとか芸能を広め受け継いでいく使命など単なる名目だ。
民族衣装を着て民族楽器を構えて「誰でもない貴重な存在」っぽい宣材写真を撮り、
観る者を装いと芸事で騙せさえすれば「代えのきかない誰でもない自己」
「誰とも違う何者らしさ」を確立し、生きる意味の確信を持てさえすればゴール、
特殊コンテンツを借りる真の目的はそこで終わっているのだから。

そして誰も彼もレクチャー講師やりたがる、あれもまたプライド死守とマウンティングかもな。
既存コンテンツの踏襲でやっと何者かになれたような凡愚に金払って何を習うというのだ?
同じ暇あったら津々浦々の、凄っ…アンタ何者??!! な人々から生き樣を学び取れよって思うんだが、
人間って不思議なもんで、ぜひ直談判お弟子入りすべきブッ飛びスターをご敬遠ご遠慮ご謙遜し、
所謂 “ちゃんとした” 安心普通カルチャースクール的進路選択をなさる。勿体ないよなあ。
忙しくて諦めちゃって、ボッタ値で買った楽器は売っ払われ、そりゃ古道具屋にわんさか出るよねえ。


でも…でも… ドブ之丞先生は正真正銘、本場仕込みの本物?
いえまあ、こう言っちゃあ折角の御信心を崩してしまうようで申し訳が立たないけれど、
本場こそ本物!思考を1発でガッカリ失墜落胆させるのは、以下の文言である。

ドブ之丞先生は音楽一本で食べられていません。
古道具屋の隣の居酒屋『どぶ禄』で厨房およびホールバイト(まかない付)の身です。
本場ドブスタン仕込みの腕前で、本格スタミナもつ鍋の仕込みを手伝っている。

 らっしゃい

えっ? 国際的な文化大使なのに?です。日本はドブスの心が足りないのに?です。
チャラチャラした日本の若者たちに「ンマセぇン生6つとぉ…ウーロンハイまだっすか」言われて、
ヘェヘェ応えなきゃいけない身です。アイヨっ!! ぁりやとざゃすッ!! ただいまお持ちしまァす!! …ふう。
ドブス民族の心の伝道師が、シメに韓国風タッカルビラーメン鍋などをお勧めしなければならないのです。

現実問題、毎年の渡航滞在費・稽古代稼ぎと、風呂なし四畳半の家賃も払わなきゃならんので。
留学帰り直後の頃などは就ける仕事もろくになく、下水管や側溝清掃の日給バイトで食い繫いだそうだ。
カルチャースクールのドロドブス初心者コース1コマ5000円が埋まればだいぶ違うはずなんスけどね。


いえいえ、飲食店勤務、素晴らしいスキルと社会貢献ではありませんか。
でもドブスタン文化大使のプライドあるんで…どぶ禄バイトの立場は大っぴらにしてません。
バラしてしまうとナぁ~んだ結局、日本社会の賃金に頼った偽物か~と足元を見られ、
売れない食えない芸人大変ネせいぜい頑張ってハハハ1曲弾いてくれる?タダで!と見下されてしまう。
芸事の研鑽、飲食店勤務、どちらも堂々と取り組んだらよろしいのに、
‘芸で自活出来てなきゃニセモノでしかない’ というプライドが邪魔して、もごもご…

限らず、悲しき芸道、音楽だけで生活出来ないのは世界の名手達にもよくある実情です。
学校や研究室での教鞭を含め、演奏だけで食えてりゃわざわざ先生やらんでよいわけで、
むろん演奏界隈は食えない講師の溜まり場、仕事の取り合い場、食い合い回し合い場になるよな。
で、食えない講師が食えない技をレッスンし食えない生徒を量産して、
講師でもやって糊口をしのぐ、海外文化継承を気取って実像は生粋のスレスレ社会人…

いやはやこれを文化継承と仰らば、さしずめなんチューか、星に願いを夢のスパイラルねずみ講か。
スモールワールドの住人が、何を習い何をやるかで他人の上下や貴賤をはかり、
評価や態度を乱高下とは、たいしたビッグ蔑ンダーマウンティン。ハハッ♪ ファンタズミック


というのも若人よ、年配らの儚き愚行を察しておくれ、出羽守(でわのかみ)とはよくいったもの、
戦後の無知蒙昧と屈辱感の反動か「異文化理解で自己実現」がきらびやかな時流があったんだよ。
日本なんか捨てて海外に行かなきゃ真の国際にあらず!という観念に浮き足立っていた時代。
“人類みな兄弟” “劣等日本”の中で “誰とも違う自分” を求め “ここじゃない何処か” を大勢が旅したら、
似た者どうし潰しのきかないドツボ人生だらけにならぁね (≒穴兄弟)。
インターネットとくに動画投稿サイトの普及によって現地特派員の有り難みが薄れてしまった次第。

そんなツボ穴、誰とも違うと選んだはずの進路にさえ “型” が透けて見える驚きよ。
既存の見本をなぞらぬことには結局 “誰とも違う” “文化の架け橋” に成り上がれぬというわけか?
おかげで「つまらない自分が → 出逢った偉大なコンテンツに人生を賭けて飛び込み →
頑張って習得して褒められたぞ → やい日本のパンピーどもひれ伏せライブ来いCD買え」
といった、
いつだかどっかで何度も見た聞いたよ~な紋切り型のプロモーション意義になっていくのではないか。

そして海外要素を仕入れては頒布し有難がられるプレゼンター的キャラの輝きを維持させるためには、
相手はバカ素人でいてもらわねば成立し得ず、いつま~でも相互幼形成熟アホロートルな構図に陥る。
ってことは、1つのことをコツコツ成熟させ披露する生き方ってのもどこか甘えた言い訳やもしらむぞ。
コツコツ頑張って伝統を会得したという “情報” ばかり見てのぼせることになるからな、演者も客も。

 情報を食ってるんだ!

そこに気がついた途端、俺、巷の民族音楽コンサートみたいなんわざわざ行かなくなったし、
払うカネも時間もいちいち勿体ねえなと思うようになってきたよ。
だってそりゃあ演者がやってる演目は演者自身の生き方の輝きじゃないわけだもん。
習いごと真似ごと頑張りました演奏丸出しで浅さが透けて見えて飽きちゃうもん。

白ヒゲ行者に習った軟体ヨガを母国で披露して→自分も聖者と持て囃されたい!な構図の、限界点か。
つまらない日本人のうちでもパッとしない存在でしかないコンプレックスから、
最も本格的な “代弁者” なのだと褒められ誇りたいがために偉大なるコンテンツを欲しがり、
反復刷り込みによってどうにか自己の存在証明にすり替え装おうとする浅はかさを、俺は見抜くからな?
楽器趣味の方々が俺に褒められたいアプローチの果てに悉く撃沈なさる核心はそこなのです。

俺はさ、外国浸りの本格さなんかでなく、楽器を通したあなた自身の人生そのものを魅せてもらいたい。
習い事スライドでバカ生徒集めて金とりますじゃ、看板掲げて薄給不遇にあえぐピアノ講師と一緒よ。

や、一緒、一緒。じゃないならせめてもっと “本当に誰とも違う” 出自エピソードないの?
陸上競技十種優勝のみならず世界の猛獣を倒してきた経験を生かしてフルートを吹き始め」とか、
「乗っていた豪華客船が転覆沈没、溺れながら偶然掴んだバグパイプに運命を感じ」とか、
帝王切開により既にビリンバウを抱えて産まれてきた神童」とか、ないの?
そのくらいの楽器との運命をスタートラインとして頑張ってるなら分かるけど、
誰も彼も「名手の演奏に衝撃を受けて自分も習い始める」と受け身ばっかりで退屈しちゃうよな。


大事なことなんでもっ回言うよ、
いかに、いッかに人間、とりわけて日本人が日本人に向けて説明する ‘人となり’ を、
装い、借る虎の威、いわば “記号” でしか自他を見ない・見られない・
見ようとしないか
ってことです。端的には〝幼さ〟やもしらん。

いわく、日本人はみな自分と同等で丸裸な劣等ドングリ背比べに違いなく →
何を学んで威を借りた結果 → 偉そうにご講釈垂れる地位に立てたのか? で他人を計る。
それもまた生存戦略といえばそれまでだが、皆さんにとっての “民族楽器” とやら本質は殆どこっち、
“やる” ことが主体で、もたらしてどう自国文化を充実させ変容させるかは考えない。
自国文化に浸透したら自身の仕入れが古いものになって有難がってもらえなくなっちゃうもんね。

どれだけ真剣に分野に嵌まり込んで頑張っているかは二の次だ。

…他国の代弁者としての肩書きを得て演じることが、我らの生きる意味なのか?

という問いに照らした時、否ッ!! 真に大事なのは、こうだ。

装いを脱いだそいつ自身が何者なのかってところだと、俺は思っている。
各々の持ち味を生かして頑張ってみようじゃねえのよ本来。ところが芸事となった途端、
‘伝統の踏襲とその代弁こそが正統で至高’ という先入観に侵されてしまう。

コンテンツとプレゼンターの関係性は、自己実現欲求の閾値では混同しがちだ。
いちど分割して考えてみようではないか。

資質… 肉体や文化圏の出自に限らず、存在と思考のバックグラウンドをも、だ。

まやかしの毛皮や楽器がなくてさえも己を失わないでいられるか、だな。
好きな分野だけど自分に武器が無い人は輸入雑貨ショップ経営や民族学研究者といった、
フィールドレポーターもしくはミステリーハンターといった解説者枠に落ち着くことになる。

口先だけで実力に乏しいのでは格好悪いし信用してもらえないからな。
装いの毛皮や楽器なくして、何者か見失い、悩み、自己まで失うようでどうするのか。
だからこそ身も心も染め上げるに足る ‘確かな何か’ を得るために ‘留学’ するのだろうし。

そこへきて、

とは、いったい何事だ????
本当の面白さ、得体の知れなさは、ここに生ずるのである。


詭弁、詭弁。しかしこうした詭弁のプロセスを経て漸くお気づき戴けるかと存ずる。
何事だと狼狽える側が少々間違っておいでなのだ。すなわち、

クセの強いコンテンツをやるから紹介者のクセも強くなるわけではないし、
アクの強い紹介者がやるからコンテンツのアクも強くなるわけでもない。
人物自身に何者やらしれぬ謎たらしむる ‘何か’ があり、
存在感と表現をして魅惑のコンテンツたり得る‘何か’ を発する存在に対して、
常人にはもはや為すすべがないのです。

真に異次元な神秘性はそこに出る。さかなクンさん、野爆くーちゃん、持ってるでしょ。
なりたいなら自分の感性を信じてトライし続けられるかが最終的に肝心じゃないかな。
クセだアクだバケモンだ、ピースケ教の教祖サマだと嗤われて久しい私ですが、
弾けば確実にひとかどの人物になれる保証付の珍楽器なんか無いんだよ。幾度訊かれたことか。


ところがそう打ちのめされてさえ、染み付いた固定観念は抜け切らないようで、

やっぱりピースケ氏はなんか違うのか… 装いを脱いでもこの本人自体に何かあるんだ…
この人自身が何者かなんだ… 何をやるやらないじゃなくてこの人がやるから何かが起こるんだ…
既に何者かで何かを起こす人だったら自分ワールドを磨き続ければいいんだよな…
ひきかえ自分は何者でもないんだァ… 探さなくちゃ…
何者かになれるひみつ道具を出してよドラえもん

とは考えたくないんですって。そこを認めてしまったら、これテレビマン氏に言われたんだが、
「素人さんが努力して掴み取るストーリーが浮かばないんで位置付けが分からない」
んですってッハッハ、この言葉には呆れたね、スペシャルなコンテンツを共に楽しまんとするのでなく、
フツーの人がスペシャルに成り上がれたキッカケを納得できないことには楽しめないとこうだ。
自己が無いという怨恨の雛型はそれほど鬱屈し異様にひねり上がるのか?


民族楽器を愛する各位の殆どは、その多様な神秘的創造性を並べ立てては溺れ、
引き換えに嵩じるちっぽけな自己の喪失感をさらなる他国文化で埋め合わせるあまり、
創出可能性=自分の国で作り楽しんでみようという視点では大いに挫けているのである。
レジスタンスの向こうにインディペンデントなアイデンティティとしての歌や楽器が生まれ、
紡いできた歴史こそが民族音楽であるのに、どうした… 我々は平伏して有り難がるばかりなのか。
他人のトライアルをトレースして有り難みにあやかろうとするばかりなのか。
シタールを鳴らせばブラフマーに、チャランゴを鳴らせばパチャママに、なれると思っているのか。

民族音楽とは何ぞや→正確な理解こそ正解である!というねじれた感覚の、これが原因であり正体。
まずはそうした萎縮観念の打破、ひいては打破の照準を指し示す(誰もせんのでね)ことを願い、
狂伝「アルダッロ・ツクーリァ」を書き残しているつもりだ。

「 ‘何者かになりたい’ という悩みをよく聞きますが、
何を装えば何者かになれるかを探し回るのではなく、
あなたはいったい何者か?と問われる域まで突き抜けようではありませんか」

有識者、かく語りき。装いはともかくとして!
おぼえておいてほしい。本物か?・偽物か? の議論はナンセンスだ。
己が偽物と知る者は本物に近づくべく努力を重ねるが、
己が本物ならば偽物をも遊ぶことができ、本物か偽物かの議論など越えていく
のである。


逆もまた然り、楽器は手っ取り早く自己を確立せしめる最強魔法アイテムに見えるのだろう。
ギターピアノ弾けるのイイな… バイオリンは子供の頃から習わなくちゃ…に始まり、
ピースケさんッ!自分に楽器作ってください!友達価格=タダでッ!と迫ってくる手合い、
スゴイと褒められてるピースケさんと知り合いである自分のスゴさを自慢したい!手合い、
でも利用したいだけだから心から親友になりたいと思ってるわけではない!手合い、
あんたの苦労はどうでもいいが自分の願いは聞き入れろ!って手合いは、全員そう。

で二言目には聞きかじりの知識を振りかざして、徹底解説!
まぁ天才と凡人の違いは~、まぁ才能と努力は~、まぁ偉業を成すにはァ~、
アインシュタイン!スティージョブズイチロー!松井!大谷!羽生くん!藤井聡太
デパ地下グルメ最強100!へんな生物最強ランキング100!人気モデルが選ぶ最強モテ盛れコスメ100!
ディズニーランド&シー最強攻略必勝ポイント100! 最強植毛まずは無料お試し100本!

といった最強マニュアル定義づけストーリーの提示に誘導されないではいられないし、
あわよくばその代弁者ひいては知識勝者TVチャンピオンを気取らないではいられない、
自分の頭で考えない、群れから独り離れて日常非日常の物事を哲学しない、行動できないようだから、
とんだ毒リンゴジュースを勧められるまま騙されてホイホイ摂り入れてしてしまうんだよ。

 あれをIQ試金石テストと捉えては酷だが… しかし自由意志で8割もですか?
 ((( ハハハこんな見え透いたペテンに進んで引っかかる連中なら屠畜の罪も軽いというものですな )))
 ってストーリーが最初から透けて見えませんでした? いかにも貴族な為政者の考えそうなこと。
 専門知見を採り入れて正しき社会を!と元来誠実な気質の人材ほど騙されるトラップだったと思う。




脱線脱線。では斯くの如く能書きを申し連ねる、私めは何者か

共通項として、美的感性と技術に長け、多分野に職能を生かすことを長く業としています。
敢えて俺サマ自賛アート丸出し作品からお客様の為に裏方に徹し尽くすデザインまでケース毎ケース。
サーランギーからスナホリムシといったコンテンツは自ずと職能の ‘内側’ に含まれることになるが、
狭い特殊コンテンツをやってる=他人と違う自分!とばかりに己の人生を全傾・投影しない。

ところが多くの人は ‘自分が関心ある外側’ のレッテルだけでそいつがどんなステータスかを早合点、
“いつまでも一筋であってくださいネ!(愚かなまでに!) ”と勝手に熱望し、
或いはその分野ひとつに人生を全振りしている云々で勝手にプロorアマ的分類整理なさろうとし、
傾倒の必死さの度合いで他人の価値や位置づけを計ろうとします。
そして ‘手に職’ や ‘探求の才能’ を応用し様々な提案物や工夫がかなう人材よりも、
一途に賭けるプロフェッショナルスペシャリストの挑戦!の人生ばかりに夢見がち。

おかげでピースケ氏に関し、楽器に興味ある人の場合、楽器分野でしかピースケ氏を見ないので、
ピースケ氏が新楽器発案のために生物分野の勉強を取り組むや、
「(…楽器に長けた奴だったのに諦めて辞めて他に行った半端な奴!)」と見下して、以後冷たい。
逆に生物のみの人は関心の窓口が生物分野しかないため、ピースケ氏が楽器に取り組むや、
「(…生物に長けた奴だったのに挫けて逃げて他に行った浮気者!)」と鼻白み、以後冷たいんですよ。
この ‘以後冷たさ’ は分野への一途な隷属を笠に着た差別感情に他ならない。帰属貴族とでも例えようか。

既存分野の正しき理解に沿わないピースケ氏はハミ出し者だという固い考え方しかせず、出来ず、
ピースケ氏が方々を掘るから既存分野に新アプローチが出るのだという考え方には至らないんですね。
各自どう生きどんな未知の道へ枝葉を広げるかより、その人物の確かな位置付けを欲しがり、
勝手に紹介したがり、しかし自分の理解に整理しきらない在り方を、帰属貴族はものすごく嫌う。
やたらに手を出しても中途半端に終わるだけサ… の文言もまた是非そう悔いてほしい願望なのだ。

むしろ逆ではないかな? ナントカ奏者、カントカ科学者、ウンタラ専門家等々、
プロフィールをコンテンツ一本槍に固定してプロ意識にうかうか独りごちておると、
短い人生、他に武器のろくすっぽ無い狭視眼的な食いっぱぐれ自称プロ人生を送ることになり、
カルチャー講師=ズブの信者相手に借り物文化の切り売りでしのぐ運命に陥るのは目に見えている。
これがなぜいけないかというと、テメェのメンツのための負担や迷惑を他人に強いるからです。
私のこの40数年でさえ沢山のお馬鹿さんを見てきましたし、せいぜい40年生きてきて気づいたのは、
専門バカ単純バカでいさせよう衆愚の一匹に留まらせようと互いにそやし合う面が凄く大きいのな。

俺はせっかくこの国に生まれた自分の体を有り難く使わせて戴いて、
より多くの視点を得て新たなビジョン、高次元的で面白い社会の窓を考え拓いていきたいと決めた。
何者かを強いて言えば、何かの分野の第一人者ならぬ、分野の概念から創る【第0人者】やね。
存在しない国の民族楽器を創り弾くという行為など徹底的な孤独へ挑む無鉄砲な愚行といえよう、
だが実際は真逆なのだ、何者かになりたがる、何者かであると認められたがるという姿勢こそ、
自分が何者か?に飢え、確かさを確かめて孤独から逃れたい怯えの裏返しに他ならない。

例えば民族楽器サーランギー、正しい知識・位置付け・神秘体験を振りかざすことはできても、
ではその叡智を生かした日本流入後の変化・変容という観点について、俺たちナニ言えてナニ出来るの?
前例がないことには、インドを珍しがりインドの作法をなぞる以外、徹底的になーんもできないでしょ?
前例なくして、どう判断し理解し位置付けるための判断指針も力量も皆さんに無いわけでしょ?

その点、いま現役で日本流入後の変化・変容を手がけている私は民族器楽学的当事者の日本島民、
ひいては私一人で私独りだけが民族文化! 前例がない唯我独尊ドゥーガルディクソン!ってわけ。
後進は全員ものまね王座決定戦の再放送に甘んじることになるのです。冗談半分、真面目半分。

ましてシャーマンの咒(まじない) にゆかり深い擦弦楽器にあって、
その呼ぶ神魔や怪異の側で色々ヤッちゃう存在に、外様仕込みの手習いが敵うわけねえじゃんか。
すがりつくべき御本尊を自分で作れちゃうんだから。比べること自体が間違っている。


実際、昨今再び話題のスナホリムシの生態学に言及したのはサーランギー研究の人と同一人物なんです。
理科の大学出たわけじゃない謎野郎が虫と遊んで虫に直接教えてもらった新知識なんです。
ピースケさん毎度マニアックやな~どころの話ではない、どの図鑑にも教科書にも書いていないことだ。
インド音楽やってる全員、シヴァやブラフマーを崇めてやまない各位に伺いたいんだけど、
何の聖なるラーガで日本沿岸の生物学的発見が出てくる?
どんな聖なるインド楽器を、どんな誰カーン誰ミシュラの下でどんだけ練習して、
どんなスパイスを現地仕込み本格カリーに入れれば、日本の沿岸生物の新知見が4報出てくるの?

出てこないでしょ。くるわけない。しかしピースケからは出てきちゃう。
誰に評価されよう凄さを認められようとしてないのに出てきちゃう。
“何者か”として評価されよう認められようとしてないのに出てきちゃう。
普通にニッポンジンしてる分際で世間が驚く唯一無二なコンテンツ出てきちゃったら、
“借り物で自分を探して定義づけ” 勢は、もう黙るしかないじゃない?

それでもナニ? たいそう純潔であらせられる帰属貴族の各位は、
真面目に一途に愚直に単一コンテンツに修業しないピースケを、けしからんバカと仰る?
この特殊人物が行なう結果は全て特殊バカ事例なのだから一般とはかけ離すのが正しいと仰る?
しかも毎日毎日オーバーオール着てるからどうせ無智無学童貞のバカ芸人だと仰る?

俺はな、産まれついて間もなく自主的に独自研究を始めてる生粋の自由研究者なんだよ。
自由研究は夏休みにばかり先生に課されて提出するもんじゃねえし留学の必要もねえんだよ。
誰かさんの習い事を取ってつけたようになぞっては花マル貰ったと嬉しがり名誉を偉ぶるのと、
習い事自体をひっくり返し新説を編み出し先生を黙らせてしまうのとでは、どっちが真面目?

すなわち、いいかい、あなたたちにはいったい、
分野の第一人者どころか第0人者を正しく位置付け正しく語り評すほどの、
正しい夏休みの目標ってものが、そもそも無いのだよ!

 無いのかよ?!


 …無…い…かのぅ… ぽっちも…


ええ、ええ、よくないね、猛烈ハナにつくナニサマな物言いを承知しています。
見下して申し上げるわけではありません、僕らにはこの視点が必要だという逆説を述べているまで。
その陰で、寂しい気もする。俺だけ無駄にはっちゃけてるみたいでね。

この逆説からの自問こそ、敵わねェレベルで遊びきってみせる “プロ” の真髄、
楽器愛好家の皆さんが有り難くもピースケ野郎に置いてくださる “一目” の正体にして、
グギギ食ってかかる態度の原因、ひいては生きる意味の問いなのだとご理解戴けると幸い、なんだがな。

極論・暴論、この点で皆様とピースケ氏とでは “民族楽器を通じてみな同じタメ友達” ではない。
根本から間違っているというという根本から問わねば間違いの根本を問えないのです。
もちろん礼節をきちんとなさる方にはきちんと礼節を踏まえた態度対応をさせて戴いております。


ところが不思議と民族楽器関係の人って、欠けた己を楽器で補填しているぶんなのか、
ひいては初対面からタメ口みたいな社会性に欠ける人が多いためかしら、

「(本当に凄い人は偉ぶらない!自分に親切にしろ!友達になってやるから楽器をタダで作れ!
  この音楽をやっている素晴らしい自分に世界はタダで奉仕するべきだ! この守銭奴め!
  自分の全振りなひたむきさ清貧さを褒めろ認めない日本は滅びろ!)」

といった子供っぽい態度で平気で迫れてしまうんだね。その為にコンテンツを都合よく利用して、
自分が精神の高みに居ると思いたい、結局、甘えでしかないと思うんだ。
甘えた海外文化かぶれを言い訳に、二言目には自虐的・自国サゲ海外アゲ。
外来の手習いの優越で劣等感を支えないと自我を保てず、
自我を崩す劣等感を払拭せんと外来の手習いを仕入れて優越を気取る、スパイラル、スパイラル。

度を超えた依存はきっぱり断るべきだし、時にはっきりと叱らないと分からない。
本質を問えば「誹謗中傷!」と自己の問題点を他者になすり付け替え、
「クセが強い」「アクが強い」と俺を奇人変人枠に片付け一般性に安堵することで、
とにかくなんとしても自分だけは傷つかぬよう繕って平然を装う、いわばガラス(非耐熱) の心。


ここまで核心を突いたら嫌われてもと仕方ないけど、そういうしょうもない幼さと付き合ってもきた、
俺なりに色々苦労してるんですよってことは多少理解してもらいたいな。

敢えて有能を誇示する必要はない… 反感を買うだけである… とニーチェは仰る、
この格言さえ大衆との融和のために賢人の能を諌めているのではなく、
遺さざるを得ないまでにニーチェ自身が辛酸舐めさせられてきたんだろうな、とわかる。
衆愚のどうしようもないどうしようもなさを冷徹に突き放して捉えておいでなのだ。

輪をかけて愚に対しては実際きっぱり言わねば分からないし、
知ろうともせず見下してかかり、敵わぬや謙虚にしろと諌めてくる。どうしようもないやね。
それでも俺がうるさく言うのは仰る衆愚の中にも幾分の期待、伝えたい思いがあるからだが、
ニーチェ先生と比べてだいぶんお人好しなのやもしらん。

ただその~、なんや、サーランギー奏者になるorならない、インド音楽ライブやってくださいよ、
動画の新作を待ってます
といったご意見だけは… 受け止めます、期待に添えずすんません。
人生一度きり、いまこの瞬間にやりたいこと沢山、身ィひとつなんで。
自分の歩幅で刻みたい自分の人生とはいえサーランギーで身分が知れ渡っちゃった面はあるのでね。


でもどうだろう、楽器を弾く事=イコール=奏者活動に人生全てを捧げる覚悟、なのかい?
頭が硬ぇよな~ほんと。物事を一面的にしか見てないし、見ようとしない。
楽器っていうの色々な角度からの取り組み方があっていいんじゃないかと思うよ?

アミット・ロイ先生でさえ「太郎くんと、ピースケは、学校作って」
将来は私の教えを後世に伝える音楽教室をやりなさいと仰った。
いやぁ…有り難いけど… 我こそ奏者様だとフン反って学び舎に甘んじ、居座ってしまうことで、
とうとうインド芸術教義の奴隷となって自身の芸術の可能性が止まり、
まやかしの狭き権威性で人生を固定し威張り散らす浅ましい未来が俺にはくっきりと見えてね。

文化や教育っていうのは “伝統の継承” の上にデンとあぐらをかき、
先人の権威をなぞり真似るだけでは、単にバックアップデータ移行とかわりがありません。
むしろ幾多の先人の成したように ‘先人を越えていく’ 勢いでなくちゃならないと思うんだ。
望んだとおりの成長しか喜ばない、永遠に自分の弟子=劣化コピー品であれと呪ってくる先達ならば、
どこかのタイミングで巣立ちを告げなければ、召使いの立場を越えてはいかれないのだ。




…では ‘越えていく’ とはどういうことか? 

そうさな、毛むくじゃらついでにまるックソ別角度から言うたろか、
テメェらの皆様方がいかに脳みそガチゴチに固いかを。

回り回るこの時代、街のスーパーマーケットの進出によって昔ながらの専門店が潰れ、
巨大モールの進出で街のスーパーが潰れたように、古道具の世界も興廃が凄まじくてね。
今すごいのは「本を売るなら」だったはずがジャンル全網羅し総合古物小売チェーン店に化けた、

ブックオフスーパーバザー。ここの台頭は小規模自営の古物商・せどり商には痛手だな~。

…言っとくけど特定企業ステマアフィリエイト広告じゃないですよ、一切。
書きたい必要に応じて勝手に書いてる記事です。

お馴染みの古本・古着・古ソフト・ジャンク機材に留まらず、
心底ろくにならない森羅万象もったいないグッズが丁寧に陳列、
ときに馬鹿にならない掘り出し物も見出されるゆえ意識的に時々覗いてる。
なお、業態や外観がたいへんよく似た「ハードオフ」は別の会社です。

何を宝かゴミかと観るかだな、いかに安く仕入れ高くフッ掛けるかが商売である。
わざわざ持ってきたのに200円?! ナメんな!! と駄賃査定に怒る人もあろうが、
ここに溜まりゆく品の全ては、作り手ばかり一所懸命、使い手ばかりが愛月撤灯、
売り手買い手にはきっぱりと粗大ゴミの山なのだ。未来ボロ市やわ。

仕入れが命です

でだ、

例えばここで出会ったエスキモー丸出し人形はなにか。

これねえ、カナダの外貨獲得丸出し観光お土産品で、時代物だがとりたてて貴重じゃないです、
個体数や種類が多く、個人経営リサイクルショップやらヤフオク等でもしばしば見かける。

吊り目低ッ鼻モンゴロイド好奇視を丸出しの造形と装飾、出で立ちから男の子と思うけど、
或いはおてんば女の子ともとれる中性的な。カメラ向けたらウフフ照れ笑いそうやね。
崖ポニョ少女ver.、或いは最近クリティカルヒット!!叫ぶ芸人さんにも通ずる愛嬌の顔立ちだ。

この物価高の折、こんなもんまず買わないだろ?
俺もこういう人型人形(ひとがたにんぎょうと読む)を買うってまんづ滅多に無いけど、
お前モコついて抜群に可愛いね!おいで! ピンときて即カゴに迎えた次第。
じつに1760円、安かねぇよゴミだよ。

一方これは同じ商品棚に見つけた、スペイン伝統のワイン用革袋水筒「ボタ」

実用品かしらんけどさすがに今さらお酒の充填はちょっと汚いし気持ち悪いやな。

こういうの、観光地の、お寺の並びの営業してんのかな屋さんの、
シミまみれ壁のウミガメ剥製の横に陳列されてるよな。
或いは爺ちゃんちの玄関脇の気持ち悪い木彫の首にずっと提がってるよな。
値下がりして値下がりして330円でした。

そして、

 この顔。

ドュー言うてますが、なんの動物?キツネ?
絶対要らんし買わんやん今更こんな… 330円でも高い。
こういうの、観光地の、神社の並びのよく潰れないな屋さんの、
割れたガラスケースん中の籐のザルん中で油性ペン描き値札と一緒に埃かぶってるよな。
或いは婆ちゃんちの居間の飾り棚の折り紙と広告で手作りした器ん中に居るよな。

じっさい店じまい雑多品やら遺品整理の品々が持ち込まれ、
流れ流れてブックオフに辿りついている側面も相当あると思いますよ。


は? 何の話? いいからいいから黙って読まれたし。
アルダッロツクーリァの話の軌道を全く外れていないよ。
品揃えから察するに総じて不要物だ。いかに民族文化愛好の心が大切といえ、
受け手が価値を見限ればこうしてゴミ同然に売っぱらわれるのである。
ぼろくそサーランギー然り、可愛いエスキモー人形ちゃん然り。

ときにエスキモーといえばイヌイット」と呼ぶべき論を呼びますね。
エスキモーって言ったら差別!! と自分事のように訳知りムキになる人もいました。
呼称問題を知ったのは小中学生ぐらいか、しかし話の流れにどうにもお為ごかした頭ごなしを感じ、
半信半疑の話半分で捉えてきましたが、まったく正解でしたね。

たぶん学術政治闘争よな、LGBTしかり、正統理解者ぶりたい勢が当事者を置き去る例の最たるもの。
どう考えても当事者の名乗りたい呼称を最優先すべきで、余所者が勝手なラベル貼りなさんなよ。
権威づけのために他者営為を利用できれば当事者の実際なんてどうでもいいんだろう、
民族学における “採録” 、位置づけの “理解” とやらが、観察者次第で歪むということだ。

変なラベル的理解というものは得てして、清く正しく優位にありたがろうとする自分達の中の秩序、
客観で装った実のところ主観に収めたい願望であって、そもそも他所者に関係ない営為のはずなのよ。
世の実情は清濁併せ持つなんでもありの荒野にして海原なのだから。

そこへきて日本人の奴隷根性は、海外主張への隷従こそ正しい国際理解ダとばかりに平伏す。
鵜呑みにして差別イケマセン良い子ちゃんを喧伝し、後々で当のエスキモー民に梯子を外された、
“理解者・解説者” 各位、お元気ですか? 知らバックレ全開とお見受け致します。
自分の位置付けや論説が誤り =イコール= 自分が偽物、という考え方なんやろうね。


果てに、やっぱり「自分が偽物であるほど本物らしさにしがみつく」し、
「自分が本物でありさえすれば偽物をも遊ぶことができる」と俺は思うんだよ。
ピカピカにキズなく出来の良いものが洗練された「民 “族” 楽器」、
出来の悪い土臭いドロまみれなものが垢抜けない「民 “俗” 楽器」と決めつけ、
ピースケさんを「狂ってる」「変人」と決めつけながら、その狂った変人に、
「ウチの楽器が “族” か “俗” か鑑定してください」? いいかげんにしてくれよ?

まあいい、

そんなおんめさま方にこのボタ袋、スペインがどうのこうの無視して、

 このように切り出し、

 ハトメを咬ませて、

 頭に被せると、ほら…


奇怪かわゆいアリクイ式ガスマスクに大変身!

 マスク取ったら、

 あら可愛い子ちゃん。

100均セリアだったか、キーホルダーの尻尾をお尻につけるとピッタリ合うし可愛いでしょ。


ええ、民族資料の “正しい” 陳列、正統な理解としては徹底的に間違っていますし、
貴重な現物資料の現状を徹底的に破壊してしまっています。
イヌイットにはスペインのワイン袋を被る文化はありません。

が、なにか問題でも?

だってこのようにちょっとしたアレンジでゴミ同然だったこの子に物語が生まれるじゃないか。
正解も見本も無い、新しい冒険物語が浮かび上がってくるじゃないか。
遠き多民族が培ってきたカタチをアレンジしてさらに夢のある可愛いものにするんだ。
否、アレンジもクソも、ブックオフ店内でたまたま見つけた瞬間に俺はもう正解を思いつく。

色々な要素がごた混ぜの、こういうのが本当の意味での多様性なんじゃないの?
文化のミクスチュアの本質が此処に在るという概念はそう間違っておるかしらな。
ブックオフ自体が古本屋を “越えていく” 覚悟で巨大総合ゴミ屋に転じた業態なら、
そうして出逢ったゴミ達もまた混じり合い、この国で “越えていく” 覚悟でなくてどうするの。

なんですか、隙あらば、国際理解! エスキモーは差別用語!正しくはイヌイット
不思議な暮らしを無知な一般日本人の皆さんに!誰より物知りである私が上から目線で定義を解説!
皆さん知ってましたかハイ論破よろしければチャンネル登録を…
などといった、
“ 承認地獄マウンティン =実録!近現代土着・幼形成熟日本人の習俗典型= ” は、ここでは過去の話。

皆さんが弄ぶ多様性など、その言葉の尤もらしい理解のポーズに溺れるための自己欺瞞にすぎない。
だから真に多様的なモノゴトが現れた時、固定観念を蹂躙されたような心情にうろたえるのである。
あまっさえ、外国文化を受け入れ採り込み理解すべきだ日本滅べと弄んでいるものは、
自身の無能、←に対する絶望、←からの回避としての、←儚い偶像崇拝じゃないかしら。
自分を生きられていない代わりに、自分を生きている他人の要素だけを欲しがるんだよ。

浸るばかりでなく身近な物事から生み出す気概を持とうではないか。
現代日本はそれが出来る、というか恵まれ過ぎているくらいだ。

氷海の国の少年が東ハズレ島の怪博士の怪テクノロジーによって
モコつきアリクイ仮面少年ボウイに生まれ変わったのだ!
相棒ドューポッコモコちゃんを引き連れて、

 (ドューポッコモコちゃん)

さあ行け!モコつきアリクイ仮面少年ボウイ!



…どこの国でなんの楽器を習った自称日本代表の技でこれが出てくるんだよ?!

どこぞの楽器に詳しいあなた、答えてよ?! タブラ? ジャンベ
かりそめに着飾る熟達度、国際理解度など、何の価値もありません。

あのね、愛すべきテメェらの皆様。
こういう遊びは先達に習ってパッと出てはきません。個人のセンスとスキルからです。
キチガイバケモンと指さされても忘れない、夢見るセンスと実現しちゃうスキルだな。
うーむこれはこうだな…あれと組んだらかっこいいな…っていう正解が見た瞬間に思いつく。
思いついたらやってみる。新たな世界が生まれルダッロ・ツクーリァ
日本で少ないナニ習ってナントカ奏者ライブ来てね3500円!に甘んじては辿り着けない世界観。

皆さんの国際理解にとって大事なのはこちら。タグ、ラベルです。

これはこーである、なにはそーである、だからどーであり、他は許されていけない! とこうだ。
タグやラベルよる存在や価値の位置付け、そんなもの実体は紙上の情報でしかないが、
それがナニでありどう評価されているかを正しく知らないことには何も知らない、
鑑定団が高値をつけないと価値が分からないとこうだ。情報を食ってるからな。

私が大事にしているのは、新たな世界観に通ずる感性です。
人形の感性、素材の感性、色彩や音響の感性、空間の感性。
今、エスキモーかイヌイットか、正しいか間違っているか、じゃないんです、
スペインのワイン袋における正しい起源と伝統作法の再現、じゃないんです。
今はそんな御託を悠に ‘越えていく’ この少年自身の冒険を未来に見たいのです。
忘れられ打ち棄てられた物たちから蘇る夢を見たいのです。

生まれてこのかた常日頃からそんなことを夢想しているから、
粗大ゴミ山で適当に見繕ってきたこんなクズ雑貨さえ、
互い違いに組み合わせ、最低限の手入れですぐピーンときてポンと出ます。
アルダッロ・ツクーリァ、=センスとスキルを磨く気質に裏打ちされた美の衝動者と、
どの民族のどの文化を “やる”、=トレースすることでしか自分を磨けない人たちとは、
やっぱり根本から、根ッ…本°ッ…から、心の住まう処が異なるのだと思う。


私は素材から感性を引き出すある種の天才で、色々な分野を摂り込んで長年メシ食ってる。
民族楽器を弾くからといって民族楽器一本槍さんと同等の承認餓鬼ではないんです。
生まれつきこの気質だったし、誰に言われずとも幼少から自由研究・自主鍛錬し続けとる人間、
あまつさえ奏者の御本尊である楽器そのものすら突然平然クリエイトしてしまう人間を、
「自分を天才と自惚れる奴はみんなバカ、普通の努力で協力が大事」とバカにする手合いもあるが、
そんな妬みのテンプレ文言で凡愚な自分をなだめているうちに、美學の差は着実に開いてんだわ。
いいトシこいてからどこぞのガイジン奏者サマの演奏に衝撃を受け、
自分探しに慌てて駅前教室でスキル取ってつけるようじゃ、もう周回遅れなのだよ。

いざや征かん、誰も見たことのない想像の世界へ…

 マンソン版

 元ネタ


やれ、日頃「日本人だから外国人だからと区別なく平等に」とお為ごかすくせに、
外国人とみるやヘコヘコ… 日本人とみればニラニラグギギ… と豹変するや、
エスキモー?イヌイット!差別反対!とパターナリズムなラベリングでしか対象を見ないうえ、
巷のゴミ溜め屋を覗いて身銭を切って異文化の質流れを救いもしてやんないじゃん? 
どこぞの民族文化にチト詳しい貴方様、答えてくれよっつの?!

ついては是非、あなた自身から湧き出る、借り物でない夢を見せてほしいのですが、
‘保健所で引き取った汚い捨て犬が有能と知ってから血統書だのと喚くような人’ ばかり。
自称芸術家が単独で騒いでいるだけでは “文化” ではない!という定義さえ、
死守したところでオタクだサブカルだと現象の命名ばかり、何ら発展に恩恵をもたらさないではないか。
知ったか気取った批評家フェイス決め込んでるんじゃねいぞ。

有るもの達の歌を抽き出す私と、無いものをねだってばかりのあなたたち。
ゴミの山からどんな物語をおッたて鯛? 遅い!ブックオフスーパー姥捨てバザーへ急げ! 
たまに民族楽器の類がずいぶん破格で並んでますからね、いつだか壊れたウード売ってたな。


なんじゃい?

何故いま唐突にエスキモー人形の改造を出した意図が、さっぱり?
何を言いたいのか分からない? さいですか、さいですか、なぜ分からないんだろうか。
この連載コラムはネパール式サーランギーの改造を主題に話をしてきたじゃありませんか。
私はサランギ学会・サリンダ協会の会長=ゴミ拾い担当ですからね。

ネパールのサーランギーはくびれ胴だからサーランギでなくサーリンダと呼ぶべきだ!論と、
エスキモーは差別用語だからイヌイットと呼ぶべきだ!論と、
ピースケは民族楽器学の規格から外れた独自研アマチュアでしかない!論と、
ヒメスナホリムシに自分の肉をやるなんてキチガイ研究者だ!論が、

「外野ばかりの位置付けを騒ぎ、身近な当事者の在りようを悉く軽視するも、自身は凡愚のままか?」

という煩悶を奮い立たせる点でぴったりと相似するのです。
在り方と軌跡を正確に捉え受け留めるのが、とりわけ “採録” の努めではないですかね?
だのに何故あなたの都合で勝手にひねって取捨するのですか?

当のインド人ネパール人がサランギやサーランギやサーーランギーーと呼んで愛しているのなら、
形がサーリンダー属に似ていようとも勝手な解釈を加えることは憚られるはずです。
 ↓
当のエスキモー達が誇りを持って我々はエスキモーだと仰るのなら、
勝手な解釈で差別イケナイと騒ぐことなく、そのように読んで差し上げるのが礼儀です。
 ↓
では同様に、芸術家・デザイナーでありながら守備範囲を広く持ち、
ときに民族楽器学、ときに海洋生物学と、既存の営為に埋没せず新たな試みにも挑戦して実績を重ね、
インド伝説の大巨匠アラウッディン・カーン直系ニキル・べナルジーの愛弟子アミット・ロイ師範をして、
「こんな子はインドからも日本からも出てこない。自分でやったほがいい」と評されただけでなく、
甲殻類学においても類例ない論点の文献を上梓し現職の博士陣が震え上がる実力を発揮している、
誰がどう見ても当該分野の草分け的な存在である当の日本人川崎ピースケさんの在り方と実績を、
なぜ皆さんはあれこれと同等に評する立場でさえないにもかかわらず、

ワ~この人は常軌を逸した研究狂人だ~クセだアクだと勝手な解釈で位置付けようとするのでしょうか?


答えはズバリ、「判断の尺度が無いから考えられない」、これです。
判断の尺度を誰かに提示されないと自分でどう判断していいか分からない狭量の凡愚だからであり、
他方、私は判断の尺度がないことさえも自分で鋭く見抜いてのける天才だからです。
その軛(くびき)から外れる才気(才奇・才鬼)を度外視しないことには平静を保てない、
惨めを許せないルサンチマンなメンタリティにひねりあがっている。ひずみも生じますよ。
自分らしさ欠乏ニッポンジン横並び体質・権威隷従主義のじつに賜物。
ここについては、もう、そうなんだからしょうがない、としかいえない。

ならば、仮にも他称・日本サーランギー研究の最高権威であらせられる大僧正(笑)が、
「 ((( 怯えて考えないでみんなも擦る楽器の自作や演奏に挑戦してみようぜ! ))) 」
と仰り、ありがたやありがたや、モーセの海割りの如く道をお示しくだすっとるンだから、
そういう先駆的前例としてそのままに受け止めればスマートであるのだから、
やれ「正しくはサーリンダー!正しくはイヌイット!正しい理解!」などご勝手に解釈せず、
御託ばかりしのごの言い訳せず逆らわず、この分野における先駆的専門家先生の指針、
すなわち私、ピースケ大王様の仰るとおり皆さんも自己実現に挑戦してみたらいいんです。いいんです!

ムム!!

それがおんどりゃあの皆様、権威隷従主義民族の正確で正当な選択なのですから。…違うか?
だって専門家でもない貴方がこの道の専門家の言うことを聞く以外にどう判断なさるんですか?
先生の言い付けを聞けと迫る貴方たちが、ピースケ先生に言うこと聞かされるのだけは癪に触るとでも?

いいかい、何者かになりたくて何かを目指すのは結構なんだよ、
憧れを胸に努力で掴んだ輝きを皆に誇るのはよいが、
「あなたは確かに確かな何者かですね」と褒められ位置付けられたいところ(=認知)に、
心の置き場所の安寧を得ているうちは、真の何者にもなれていないのだ。
自立独立した何者かでなく単にその輝きへの依存に他ならない!

むしろ、自己を見つめ・自己と対話し・自己に挑み・自己を築いていく中で、
何とも例えようのない、しかし揺るがないエッセンスをなんとなく掴み取っていて、
「あなたはいったい何者なのですか?」と驚かれ(=認知域外)、
当人も説明にあえぐような人こそが、じつは真に何者かになり得ているのではないかと思います。

平野レミさんがあれだけ主婦のレシピを考案し、クレイジー担当すら買って出るご活躍の中で、
ふんぞり返らずあくまで “愛好家” を称し、創作の歩みを止めない、そこが大きな魅力だ。
和田誠さんが惚れ抜くわけよ、出逢いのきっかけのなんとまあ素敵ミラクル。


その点、民族音楽なるジャンルは誠に罪作りで、接する者を誘ってはご立派にほだし上げる副作用をもつ。
借りてきた正しさで即席に、何者か…ひいては日本随一の特別特殊な理解者になれるはずだと。
このパラドックスを少し問えば、


「(わ…私は…自分なんかより…愛する外国の魅力を日本に伝え…るのが…使命でして…)」

単なる運び屋だな、盗んだバイクでワールドデリバリー、精神年齢15歳の夜か。
ガイジンの代弁はもう要らん、その学びを経てあなた自身がどう成長し、
日本に、世界に、新たな何をもたらしてくれるのですか?と問われた時、
自分には何も無い…だから借り物文化でどうにか身を塗り固めてきたのに、
借り物でない自身を見透かされるというのは、もう丸裸に剥かれる恐怖だわな。
民族音楽に親しむことと、自分もまた民族として芸術に挑むこととでは、大きな違いがある。


現代日本人のメンタルに根本の問題があるのではないかと思っていますよ、
自己存在のスッポ抜けという意味では、いわば一種の “文化人類学的ゾンビ” やもしらむ。
自分がたいして何者でもなく、何者でもない自分を認めるのが怖い言い訳に、
借り物でない自分が欲しい、願わくば手っ取り早く欲しいから、意味付けのオリジナル楽器を欲しがる。
自分とは何者か?という問いのスパイラルになるのは必然だ。

が、それを伝えんとする当記事のメッセージさえ感情的にしか捉えられないんだろうね。


/ギギギ…同じ日本人のくせに…上から目線ウザいキモい生理的に受け付けない…\

とりわけ近々代、端末の便利さを手放せず、思考を深め難い短文の応酬に明け暮れ、
少しでも自分を傷つけてくる奴は即ブロック!無視無視!とばかりに、
全く我を省みることなく放題に自我ばかりを膨れ上がらせているから、
鷲掴みに抉り抜くが如く心を攫う大ッ切な学びすらも回避してしまうんです。
周囲に最低限の気遣いなどもってのほか、話しかけられただけでキモッと被害者ヅラ、
トゲトゲと威嚇しないことには自分を守れない、乾いた、一種のサバイバル病理だわな。

遡って長年の大因を探るに、やはり自信喪失ゆえに外部要素を神格化しすぎかと考えます。
民族楽器もまた然り、全てはかの国・その国・どの国の、村人・道具屋・芸術家達が、
自己の存在とは何か?を模索する中で、先祖や異国より伝わりし要素を再構成しつつ、
自分達の発案もちょっぴり加えた雑多極まる物質文化を、どうにか認知域に収めんとした俯瞰です。
自分の方が民族音楽を深く理解している!と息巻く心底くだらないライバル心を、私は大嫌い。
世界の音楽はべつにお前の理解にカンケーネェく存在しているのだ!先ずそこから始めよ。

この点で私の生き方というのは、むろん建設的な意味においてですが、
私の存在自体、平均的日本人の普通な生き方?への疑問・否定なのかもしれません。
人の生き方の批判や否定は許せない!千差万別の生き方があっていい!と忿怒する態度をして、
私という他人の生き方の否定にご躍起でらっしゃる。同じことじゃんか?
ポパーっちゅうか、パラドキシカルな命題やね。批判否定さえも成長の糧とせよ。

他方、自分を褒めて認めてくださいーッの手合いも困っちゃうもので、

ピースケさんと知り合いだ! 自分を認めさせたい!と自尊心に転用したい下心が見え透いている。
以前は優しくお世辞も言ってあげていましたが程度ってものを知らない人ばかりなので、
 ・
 ・
 ・
 私は高評価するものを高評価しますが、高評価すべきでないものを高評価しないし、
 貴方が私を高評価しても、私が貴方を高評価するとは限りません。
 民族音楽への帰属心酔の本格さを免罪符に、貴方を私と同等には扱いません。
 惨めな思いに押し潰されたくないあまりに既存の評価点への浸り度合いを争う人間と、
 新たな世界観を見つめ道を拓こうとする人間とでは、たとえ生物種が同じでも、 
 存在のレベル、人間のステージが違うのです。
 ・
 ・
 ・

↑のスタンスに切り替えた途端、
ピースケさんッピースケさんッハァハァ…の手合いがパタンと消えました

つまりそんな集まりだったんかッてことよな〜。他人を踏み台に自分が高評価されたい!されて当然!
自分を全肯定しない利用させない奴は悪!敵!ブロック!っていう、依存の裏返し。
民族音楽カンケイの諸先輩にどうも性格のおかしい人物が多かった理由の根っこはそこだと思うんだ。
我こそは文化の代弁者サマサマだぞとばかりにプライドの置き方が間違っているから、
他人の才気を前にするや嫉妬羨望が漏れ出して態度がギクシャクしてしまう。

“大僧正” なんて嫌味言われて…

 いいかげんにしろよっつの!


 …いい…かげん……

…いいかげんアジり役もひと苦労。
俺は僧正サマサマなんかじゃないの。ちっぽけな星のちっぽけな島の1匹だよ。

だけど、どうせ意味ない生きる意味を探し、自分ひいては日本の内側を磨かんとする1匹ではある。
そして皆さんもまた、どうせ意味ない生きる意味を探す大切な1匹1匹だ。
ガイジン様の外側ばかり磨いて差し上げちゃ我こそ同列サマだと意地張ってないかい?

じっさい近年どうですか、ピースケ魔僧サマが各種メディアでドカンと啓示し、
今ひとつ埋もれてきたサーランギーというもの自体の素晴らしさ楽しさが一層広まったことで、
サーランギーってまずナニなのか?への理解が徐々に深まってきたたうえ、
無智バカ丸出し嫉妬ムキ出しで頼ってきた学徒さんもいっぱしの演者として浮かばれるようになってきた。
のみならず生物学、海浜肉食ムシへの理解と親しみも徐々に定着し既存知識の如くに語られつつあります。

つまりみんな大魔王ピースケ大僧正先生サマサマの教え子みたいなもんだな!…と豪語しておく。間接的にね。
俺の美学は、ドカンを決めたらスッと引っ込んでテメぇ出張らず、一人歩きを待つの。
かつ、ドカン当人は成長の歩みを止めず、ジャンルをまたいで新たなドカンを地雷の如く埋めていくのみだ。

 ドカンをキメようぜ


文化というものについて、すぐ、これはこうで在らなければならない、
こう理解しこう鑑賞しなければならないと“型” に学ぶだけでは真のクリエイションにならず、
いつまでも他所様の定めた借り物のアイデンティティに甘んじ、くすぶる人生を送ることになる。

自分らしさ欲しさから“ここじゃないどこか” に憧れ、“ホンモノ” の民族音楽を習うことに憧れ、
本格ボタ袋に本格スパニッシュワインを容れて豪快に呑み干しては、
「国際理解の日本代表であり正統な継承者、正しくはイヌイット!」と誇る自負など、
何者でさえもない自分自身を見つめさせられる現実からの、あえない逃避ではないだろうか。
パプアニューギニア奥地へのラジオやTシャツの普及を伝統的でないと嫌ってみせ、
駅前ヨガ講座、フラ教室、ベリーダンス体験へ本格的に通ってみましたところで、
我らの中身は相変わらずジャパニーズなのだよ。ひいては国民性、民族性となる。

或いは、既成の民族文化を学び真似て “日本人離れした本物” になれるくらいなら、
わざわざ日本人に手習いの “理解” ぶりを披露して日本人に褒められたがるのでなく、
母国などサッサと捨てて “現地” に暮らし溶け込み堂々と死んでいけば本望なはずなのに、
((( なんで日本に居るんですか?わざわざ帰ってくるんですか? )))
と言われてイラッとするなら、やはりそのぶんだけ自己存在と自己実現とのズレがあり、
“離れきれない偽物のド日本人” という宿命に苛まれているのではないかと察するし、
ピースケのような“自分らしさを持ってる奴” に対し焦燥を露わにしてしまうのではないかと思う。
だからって俄かにチントンシャンと日本芸能に擦り寄っても “国らしさ・自分らしさ” に直結しないし。

楽器は単なる自己実現ツールではありません。
むろん音、もちろん形、ときに材料の存在感の段階をして既に芸術が始まっています。
奏でず置いてあるだけでも、闇の穴から妖かしの呪音が聴こえ来るようでありたい。
とすれば音楽家を自負する者は形や素材から音楽を開始するべきである。
“文化の架け橋” 的実践者らは、既存の楽器から醸される素材の霊力を丸まる借りていながら、
まるで独力で素晴らしい芸術家かのように振る舞うのは元来の自己不完全性ゆえの代償であるし、
じゃあキミは完璧か?との激怒さえも、同じく自己不完全性に帰因するのだ。

ここの断層が …執拗に繰り返して関係各位には済まないが…
やはり民族音楽界隈のギクシャクの大きな理由じゃないかと思っている。
体系的に並べ立てたり、どこぞの他国の音楽にのめり込み本格的にカブれているからと、
代弁者然を越えてあたかも自分の発明ごと、自分の領土のように気取る者ばかり。

ならば己に問うてみるがよい、

 民族楽器なんか弾いて、人生を無駄にしてる皆さ~ん!
 誰かの人生の真似と代弁しかできない貴方たちの人生は空っぽで無意味で~す!
 言い訳で誤魔化し、生きる意味にもがき、藁をも掴みながら、
 偽りの我が家にしがみついて無意味に死んでいってくださ~い!


…って、なるか? ならんやろ。悔しいやろし、わけわからんやんけ。
愛し、学び、認められたさの果てに、お前は何者か?と問われて虚無を露呈する、
実践者各位は意外や無意識にこの恐怖を問うてるんじゃないかしら。
近代ならではの “創作できないコンプからのオタ活” の煩悶の延長上に通じていく問いだと思う。
実のところ文化は紆余曲折のうち徐々に最適化され浸透していくものなのだ。
民族楽器という具象を考えるほど、生きる意味への問い直し行為に裏打ちされて見える。


この点、お決まりの如く達観したよーな顔で、君は君らしくあればいいのさ…とか、
他人と較べて妬み争う必要なんかないのさ…とか、
自分を肯定して生きればそれでいいのさ… とかいった今ドキな世論をよそに、
かの竹中労は名著「たまの本」の中でこう喝破している。86ペエジ。

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…「イカ天」現・審査員は、〝権威ある〟面持ちして技術の巧拙を論評する。おまえらアマチュア、おれプロフェッショナルという夜郎自大。言うところの技術とは、その何ぞや? 熟練に他ならず、馬鹿でも練習しだいで、そこそこの水準に達する。真の意味の技術、それは発想である。創意に出発して工夫に到達する、逆説的に言えば、技術は熟練を必要としない。素人・玄人の差別は、ナンセンスである。音楽の世界では、アマチュアのほうがむしろ、自由奔放な発想を、がむしゃらに実現する蓋然性を有している。なぜなら、既成の音楽概念や資本のコントロールの外にいるからだ。「たま」は、そのことを立証した。…
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この一節は鮮烈で忘れられないね、こんなん音楽やってる大半が撃沈のはずだ。
早合点めさるな、全ての努力が無駄とは書いていない。くすぶらねばならぬ時期もあるだろう、
しかし、豊かに怪異じみた発想や表現の前では、懸命に積み上げた努力など無力ってことですよ!
俺はこの厳しく温かいご叱咤をいつも胸の奥、私もまた内包するバケモノと共に大切にしまっている。

徴兵・終戦・低国日本の激動と真っ向から抗ってきた氏をしてすっかり感激魅了されたのは、
半ばまぐれ且つ着実にぽっかりと時代の瓦礫に浮上せる「たま」の自由な楽曲の妙。
木曽檜の湯桶、ッコーーン! …彼らをどう評価していいやら戸惑ったのは、時代の方でした。

かたや未だに学校教育・部活動、インド芸能理解もまた然り、
校則厳守、練習練習また練習、炎天下で体を壊しても、奴隷のように猛練習…
スポ根的苦心ばかり礼賛し、判りやすいルールや順位づけの優秀者を天才ダと持ち上げ憧れるくせに、
個々に埋もれた隠れた叡智や才気を妬み軽視するが、ひとたび確立するや、元から好評していたような顔…

ったく、さよなら近代…日本文化人類、変わんねえですよ竹中先生。


「志はみんな持ってるんだけれども、その志が誰かのを借りなければ表せない志だったら、それは偽物なんだよね」


民族芸能を習いに現地に飛んでる皆さんは、せいぜいご苦労様です。か?
どうぞご安心ください、頑張っても頑張っても偽物の運び屋です。か?
自分が偽物の運び屋だと思い知っているから他人の本物さを欲しがり装うのです。か?
おいッ、日本を代表するナントカ奏者だのとほざいて自分が何者かさえ掴みあぐねてきた、
多民族の尻舐めに甘んじる負け犬どもよ、いいかげん本当の己を見せてみろ!
本当の己の魂を輝かせる咒(まじない)の具を携え、その手で、産み出してみろ!

…っていう問いこそが楽器を創り歌うことの根源なんだけどねー。
成り上げコンテンツとしか見てない人にゃ、わがるかな~、わがんねえだろうな~。

ハァ?! イラッ!ムカッ!なにコイツ偉そうに上から目線で何様?!

ネパールのサランギは正しくはサーリンダ!エスキモーと呼んでは失礼だ!

のご忿怒をよそに、俺は我が道、日常に隠れた物事の新しい見方を朝から晩まで考え続けている。
ああ、俺はいつもそうしてきた。諸君がそれをしてこなかったのだ。
自分も珍しい民族楽器を弾いてマス~♪ 褒めて認めて~♪ の手合いに割く時間もないし、
俺とあなたの格が同列ではないということは、もう客観的事実なんです。
だって私はあなたが欲しくてしょうがない“自分らしさ”というものを自分で創れちゃうんですから。
同等に対話を楽しみたい諸君は、多少なり自分なり新楽器なり生み出し世に問うてみてはどうだ?


話が長くなって済まないな、長くならざるを得ない理由があるとはいえ。
楽器をいきなり創ってしまうという魔力の極めて強力な魔性がそろそろお解りか。
諸国民族は既製品をヒントに楽器を作り生きる支えにしてきましたが、
民族楽器なんてモンはその連綿の軌跡、悪く言やぁ、ぜいぜい粗大ゴミの堆積です。
しかし、並べるばかりの自己投影と、組み替えて遊ぶ自己確立とでは、
文化発祥の当事者たり得るかor横流しの傍観者に留まるか、の観点で大きな隔たりがある。

左様、目指すべきはアルダッロ・ツクーリァだ。ツクレンコ・ウラメシヤにくすぶるな。
絶望と忿怒の果てに新たな扉を開きオリジナル楽器を自ら作り弾き歌ってみたまえ。
無理に気張る必要はない、数多のボツ作・佳作の中から、輝ける銘作もいずれ生まれよう。
そうして初めて同等の壇上、ツクーリァを地でヤってる私と、夢を語ろうじゃないか。
創れない “奏者” は過去服従の負け犬である。自分で創れぬぶん、俺は奏者を信じません。
天賦とナントカは紙一重、俺はその紙の一重を透かして行き来してるんです。


や、これね、ずっと言われバカにされ続けてきたことを、今お返ししてるまでなんだわ。
お高くとまってるんではなく実際ズバ高いんですよ、敢えて言わないだけで。
言わないし、お笑いよろしくふざけたりするから、少なくとも同等以下だろうと勝手に見くびってくる。
見くびってもいいはずの野郎なのに自分には届かない才気や実態があるから、
見くびってみせてやらないと自分の低さの説明がつかないッ畜生ッ
と勝手な妬みが生まれるわけ。
ピースケ氏のほうが芸術性のレベルが高いという事実を受け入れられないだけ。
そして受け入れ方というのも、ラクしてぶら下がるという利己的な手段しか知らないだけ。

そもそもの話、誰であれ最初から相手のバックグラウンドを想像し尊重して接すればよいだけなんだよ。
自分の知らない及ばない知識・経験・貢献があるのだと考えて、その存在性をままに受け入れる。
民族楽器やらオリジナル楽器やらで自己確立?以前の問題なんです。

チェッたかが自称天才ピースケ某などしょせん独自解釈の偽物めッ!と嫉み、
誰かを否定することでしか自分を高められない勘違いマウント野郎めッ!と恨み、
いつもオーバーオール着てる幼稚なメガネ童貞クンめッ!と外見で小馬鹿にし、
自分こそが真に文化の理解者だ架け橋だッ!と誇りなさる暇がおありならば、
他所の借り物文化にあらず相応の営為を自力で生み拡めてみたらよろしい。


しかし誠にパラドキシカルな罪作りであるのは、その権化こそが楽器だというところ。
民族音楽とやらの“民族” 、オリジナル楽器とやらのオリジナル性を象徴、
単なる鳴り物でなく自身そのものを表す、答えのない彫像としてのだ。だから無闇に欲しがる。
仰るほどの “日本を代表する” 覇気があればいずれ日本民族の楽器にも化けるに違いない。
自分では成し得ないと自認する者ほど他者営為の代弁に逃げるものだからな。

マジでそこまで罵られて反旗に奮って楽器作ってみてくれるのなら俺は歓迎するぜ?
なんや、現地巨匠の免状なくして本物にあらずとの文言で己の技術の無さを隠し、
怒り任せにやってみりゃ理想通りに組み立てられなくて、そのとき漸くプライドの片隅に、

  ((( …ブログに書いてたとおりだ… 第0人者ピースケさんってやっぱ凄ぇんだな… )))

とちょっぴり感じてくれたら俺は充分さ。そしたら代わりに10万円くれればいい。




 ハ ァ ? ? 







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【この記事は《後編》に続き、モノロオグ=あとがきで終了します。未読の方はこのリンクをクソック! …怒るのは全部読んでからにして、怒りながら自分で楽器を創ってみてください。】








    サ ー ラ ン ギ ー 図 鑑     

★バイオリンは皆さんご存じのあの形状にほぼ定まっています。しかしサーランギーは製作者・時代・地方によって様々な自由形が存在し、今なお進化を続けています。特に弦数や配線は個体によって全くまちまち。これは、先人に学んでこう作らなければならない・本場の本家本元ではこれが正しい・こうでなければ本物の価値が無い、といった固定概念に縛られていないためです。ひとくちに捉えられないそれらをサーランピーでは「サーランギー属」と総称しています。

こうして並べますといかにもアジア諸国調査で得られた現地サンプルに見えますが、なんと殆どが日本国内で発掘されたものです。日本人の技術で修理を施しました。…そう言われると急に萎えますでしょう? みんな興味本位で取り寄せて結局すぐ手放しちゃうからこういうことになるのです。

しかもこの中には当方が捏造したオリジナル楽器をまことしやかにねじ込んであります。果たしてどれが現地の風薫る本家本物のお宝で、どれが世にもいかがわしい贋作か? 鑑定やいかに?…といったこだわりは、どうにでもなることですし、実のところどうでもよろしいことなのかもしれません。



チーペスト号  名古屋の誰だ号  結局ウチに号  

ボロ号  55号  黄泉号

グランピエ号 ジョギヤ 前方後円ジョギヤ 

カリマンタン号 恵さんでしたか号 そそるスリム号 

ドードゥロバナム ドゥカン号 サランガ

サランガ・ペタンコ エレクトリック チカーラー

チカーラー(近代版) サローズ アフガンサリンダ

ネパリ くさっぱら号 さらん弓(さらんきゅう)

サランダ  擦弦仮面 ダルマサンガ サランダ

ディルルバ エスラジ タール シェナイ

エスラマ ベラバハール カマイチャ

ラーヴァナハッタ ペナ エスラール
プールヴィーナ バリアジアン号 サラウドン
ストゥーパ号 ドドバシキメラ





    文 化 へ の 冒 涜 で は ?     


サーランギーの化石(カンブリア期)


いいえ、全く冒涜にはあたりません。サーランギー属は進化を歓迎し、地域毎に異なる展開を許す楽器群です

民族学・民俗学では、創作の混入は許されず、ありのままを正確にサンプリングすることで解明に努め、敬意を払います。つまり研究者はあくまで傍観者、せいぜい中途参加者であって、真の当事者にはなれません。研究者が自ら文化に手を加え、研究対象を自分自身とし、文化の歴史を塗り替える、これが許されるなら何だってやりたい放題になってしまいます。そのため研究者は、専門性・正確性への拘りにばかりにプライドを置き、しかし自分では大した表現が出来ない、融通の効かない方向へと人格形成されがちです。異文化理解を唱える本人が無理解とは皮肉なもの。サーランピーではこの状態を「スウェーデンポルノ女優のスリーサイズを精緻に暗記した童貞」と呼び、陥らぬよう自戒しています。

だども、オラ、この楽器がこの島でどう進化すんだか夢みちょる真ッ当事者の日本民族だで。何をどう作ろうと直そうとオラほの自由だ。オラが村の遊びがまんまこの楽器の進化の歴史になるだ。「インチキ業者」「思い上がるな」「現地の文化に失礼」「1人で騒いでるだけ」とお感じなのは、ひとえに貴方の心が許さないから。なにせその現地をはじめ世界各国からウチ宛てに「サイトを見た。修理はできるか? オリジナル楽器のオーダーは可能か?」と打診が来ます。もちろん断りますよ。てめーでやれっ。もしくはてめーの村の良さでやってみれっ。…そうすることがいつしか文化となるのだから。