◆ インド発祥の多弦胡弓「サーランギー(Sarangi)」類の話題を中心に、世界でここだけ前代未聞の怪研究・珍開発の数々を発信し続ける異常ブログです。同楽器取扱いの急先鋒にして生物学者や変態ケモナーとしても知られる異常造形作家【川崎ピースケが執筆運営しています。
研究テーマ:1)楽器「サーランギー属」、2)海のダンゴムシの仲間「水産等脚目甲殻類」、3)多肉・塊根・平行、栽培から造花まで「珍奇植物」、4)原材料・愛玩対象としての「羊」 、5)獣人表現「ケモナー」 、等を題材としたデザイン論と実践、特に生物型や生物利用の意味について。議題は多岐に渡り、追究の範疇としてエログロを含みます。* 近年(2)〜(5)の構想がだいぶ具現化したので、2023年から(1)の分野に戻りアプローチを再開できる運びとなりました。
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平野レミの!!「アルダッロ・ツクーリァ」最終回・涅槃の巻(死に辛)《後編》




【当記事は《前編》から続いています。未読の方はこのリンクをクソック!】



ーーーーーーーー< モノロオグ、モノロオグ…  >ーーーーーーーー


偉そうにするの柄じゃなし、悪文を書き連ねるのは格闘だな。
これまでの人生、楽器について度々ご相談を戴き、できるだけ真摯にお応えするうちに、
どうして毎度そういう考え方になっちゃう?と引っ掛かるポイントが重なって見えるようになってきた。
みんなが抱くモヤモヤの原因、正直に書けば結局オレが悪者になっちゃうわけよ。

素直な人ほど、う~ん確かにそうかも… 自分を見失わないようにガンバロ… と解ってくれようし、
素直でない人ほど、ハァ?何が言いたいか意味不明!結局自分スゴイ自画自賛の悪文!時間泥棒!
まとまってない!支離滅裂!最後まで読んでも楽器上達モテモテ最強テク必勝コツ10選が書いてない!
とお怒りのこってしょうよ。だってそういう性質のアジり倒しコラムですもん。
どこもかしこもマニュアルマニュアル解説解説定義定義ワロタ草草ばかりの昨今ですものね。


この歳になって確信に変わったのは、悲しいことに世の中は思いのほかしょうもない競争バカが多く、
互いを尊重し合い助け合えば良い世の中になるはずなのにわざわざナメてかかってくんだ
よな。
こちらも必要に応じてきっぱり偉そうに演じてみせないといけなくなる。
性根の優しい人間にとって処世術は虚しく、不本意極まりない。

民族楽器の場合、自分だって珍しい楽器に詳しいぞ!! だから自分もあんたと同等以上だ!!
どっちが本家本場本物か勝負だ!! とばかりにイライラ食ってかかる態度、
そこ自体が間違っているし自分の無さの裏返しなのだと思う。
楽器というスタイルを自ら創り演じられる力が最も強靭なスタイルとなる、
この現象と蓄積こそが本来と承知しながら、此の期に及んでさえなにかこう…
伝統に習い従う本物!←対→ 自作なんて人真似の偽物!と分けて考えてるでしょ。

逆、逆なんよ。実際は、民族音楽趣味のほうがよっぽど偽物の人真似、野次馬の出歯亀もいいところ。
ほんとうに大切に見習うべき本筋は、どこぞの知らん村のオッサンの勝手な創造性なんだよね。
そして自分の環境でも何ができるか挑戦し生きる意義を考えることだ。

伝統や格式といったものは存在理由の引き延ばす後付けの理由づけにすぎない。
奏者を自負する者、せめて自らの手で楽器を創らずして少なくともその分だけ芸術家にあらず。
いち早く正確に正統に日本に紹介するこの楽器の第一人者! など、
真の芸術家になれなかった代償行為としての依存に過ぎないのである。


おかしいですか? 厳しいですか? ズルいですか? 悔しいですか? 嫌いですか?
私個人が誰に優越して誇ることが、論の本旨ではない。重要なのは、
ならばキミもキミのセンスで自分を信じて創ろうぜ!の視点を早く得ることだ。
じつにそこを積み重ねたセンスの結晶が民族楽器である。しがないキミの心の保険ではない。
他者スタイルを学んで借りて背負って演じるより他にないような自己実現は、
つまり楽器という御神体を自ら創り動かす力量の無さ・格式で隠す一種の自己欺瞞に通じることになるし、
他方、あやかりたい御神体そのものさえ創り出せてしまう人は、もはや神の領域に居ることに通ずる。

左様、究極的には何をするのでも己のセンス。
技術ではない。朴訥なまでに得体の知れない天性の、神たるセンスだ。
そして神の誠に気まぐれなるところは、せっかくの努力の結晶にでなく得体の知れなさの側に宿す。
神性へ近づく正しい道を真摯に歩んだとて必ずしも神にセンスを託される保証はないのだ。
ここを間違って悔しさにあがき ‘得体’ になり代わろうとしている時点で、得体の知れたこと。

\野生の勘というか… オートロックなんで。/

神に仕える身にありながら笑いの神にさえ魅入られた、奇跡のおとぼけモテ男


いっぺんそのくらい誰かにハッキリ言われないと日本人の為にならないよな、
どこぞの芸能やってるからって偉か凄かねーし、役立たねーし、ろくに儲からねーし。
いつまでもどこまでも文化さえ輸入に頼りすがりっぱなしじゃみっともないぞ?
得てして起こる「他人の人生を否定するなんて許せない!人でなし!」といった怒りの根拠さえも、
「私を否定する者など私に否定されて当然だ」という、他者の人生の勝手な決めつけに他ならない。
人類みな貴方の人生観に沿い従うべきだという自信がおありなのですか?

文化は、独自性を謳いながらも、古今東西・他者の生き方との重ね合わせで成り立っています。
日本人が日本民族の誇りのままに次なる楽器を生み出したって差し支えないはずなのに、
“伝統を破るようなことをできてはならない、愚かなまでに愚かしく真似なければ許されない”
と自他に掛ける足枷の観念、これがこの国の大問題にして大病理なのである。

伝統的なコンテンツ、受け継ぎ継がれていくものは、むしろアラヤダご謙遜、
いえいえ私ごときがどこまで勉強してさえ自分の所有物にはなりませんものです… と、
控えめに捉えるくらいで丁度良いのではないかな? 事実、借り物でしょ。あなたのものではない。
新たな扉を開かんとする人材を叩いて沈めて然るほど、伝統の中のあなたはご立派でもなければ、
いざ開かれた扉にはこぞって我先に飛び込むほど、伝統の中のあなたは浅ましい餓鬼なのです。
やれ、実るほどこうべを垂れろなどと、お前さんどれほどものんじゃい。


これって演出と広報と実態と願望が入り混じる重要な考え所でね。
例えばインド楽器演奏を身につけた人材がこの国で何かしら披露する場合には、
どうしても “一番の奏者” ぐらい見栄の箔付け広告を掲げねばならない。のはよくわかるのだが、
本当のポジションはせいぜい、数多居る中で劣る和製コピー、かつ母国日本でもパッとしない人材。
どころか、ピースケさんの技術や発想を思っクソ参考にし修理までしてもらってますから、
少なくともその部分に関しては国産ピースケさんが先生じゃねーか? で当のピースケさんの方は、
おうおうみんな頑張れ~高みを目指せ~の気持ちで書いたり受けたり送り出したりしてきとんのです。

ところがもうねー、ニュアンスの分からない競争承認餓鬼の方々は、
ピースケ氏はメガネぼうずでオーバーオール着てるしトボけた劣等人種だろうと値踏みするや、
奏者こそ確かな理解者!ピースケはどうせ亜流の自己流!と上下をご判断なさる。


  (どうせこうだろう、こうであってほしい、と皆さんが考えるピースケさん像)

色々な物事や人の連綿で現在の自己存在が支えられているという事に想像力が働かないし、
まさかサーランギー製作者による生物学的な新規指摘が世間を席巻など考えも及ばず、
カネ無い代償に、おいっピースケ小僧! 俺様が一番になれる楽器を俺様に軽く作ってみせろや…
と冷やかし見積もりばかり一人前、とは前述のとおり。


人間は見た目、見た目が人を映すといいますが、

 (岩堀市立こつぶ水族博物館・干潟のしぜんコーナー主任飼育員)

もう少し見抜きましょうよ、服装や肩書きに惑わされることなく、

 (蝦賀仁大学水産資源教育センター講師・日本鋏脚動物協議会理事)

そいつが何者で、何を想い、何を為すかってところを。

 大田区蒲田・インド古典ショーパブ「らび♪らび♪シャンカ〜ル」経営者)


ま、今、誰がナニ言った云々を名指せば尾ヒレ付きでどうせ俺のせいになるから避けるが、
見かけより鋭いのでね俺、ニュアンスというのは伝わるし人の心は読めるものですよ。
私は人をバカにしてかかりはしませんが、バカはバカだという客観現象までは致し方ありません。
正しい判断ラインをきっぱりとお伝えします、憶えておいてください。

音楽表現において、楽器そのものを創ることは、神…でなければ魔の領域です。
楽器作家は神使であるが、いっぽうで楽器奏者は受け身の乞食です。
気取りでも上目線でも勘違いでもなく事実そうなのです。
スタートラインをお履き間違えなきよう、人舐めもたいがいになさいましょうね。


でなければ、我々は今日まで民族音楽の何をしてきたんですか?

バラライカウクレレ? ウード? スティールパン? ぜェんぶ借り物、威張り者。

異文化講師なる二番煎じなピエロの衣装を脱いで、誰のものでもない素っ裸の貴方を見せてくださいよ?!
鼓や三味線ですら他所から流入してきた物質文化を日本風アレンジして親しまれた証拠なのですから、
サーランギーやサーリンダーを日本人が日本風に楽しんで、なにか悪いことがありますか?!


ってぐらい大仰にチョーゼツ上から目線で煽れば、多少なり、

「そこまで言うから自分だって作りましたよグギギ」の手合いが出てきてくれる…かな?
俺の真似して100弦サランギでも作って見せてくれる人が現れる…かな?
これがあるからこそ世界の民は楽器を創ってきたし、同じく俺も創るところから試みて、
伝えるべきを伝え、今回はかような煽り文面の形をとる必要に迫られた次第だ。
毎度 ‘北風と太陽’ のニコニコ甘やかしばかりといくまい、晴れの日も風の日もある。

ま、作ってきたところで素晴らしいところはちゃんと褒めちゃるがの、
詰め甘いとこケッチョンケッチョンに返しちゃるけえの♪

  そこはどうしてそうなの?そのスペースあるならもっとこうできるでしょ?
  緒留めのパーツとボディが取って付けたように不整合で美しくないね?
  ギターを改造するところには相変わらずありがちなギター依存が見えるし、
  ピースケさんに見せて驚かれたい喜ばれたい誇りにしたい下心が見えるんだよな。
  そうではなくあなた自分の心から湧き出してくる思いを形にしてもらいたいの。
\ インド人アフリカ人みんな工夫してるよ?日本人負けてるよ?明日にでも直そう? /

 
/グギギ… せっかく作ったのを驚いて喜んで褒めてほしかったのに…\

褒められたい認められたい誇りたい居場所が欲しいから民族音楽を取り入れたのに…
自分を120%褒めてくれないピースケさんは意地悪だ… とムッとするのは大間違い。
既に評価が高いものを身につけて評価されることで自分を高めようという時点で依存的なんです。

エピゴーネンゆーねん、覚えといてや。
まーな、サーランギー言うただけで沖縄の揚げ菓子しか考えられへん貴方達やから、
むきエビとゴーヤの炒め物にしか映らへんねんやろな。旨そやないか。レミのひと工夫♪
お飲み物はもう何番煎じの粗茶でございます… 伝統と出がらしの…

たゆまぬ創意工夫こそが古今東西の楽器が歩んできた道、
そしてこれからも歩まれたい道である。色々な形は其々の願いであったはずだ。
じつに現代古典式サーランギーはその工夫と労力のおかげさまのモダーンな結晶なわけ。
結晶ばかり褒めそやしてはインド凄い!カレー食べたい!なんて、まったく、おたんちんであり、
ほだされて楽器買って弾けなくて古道具屋に売っ払うッてんだから、まったく、おぱんぽんである。

そして皆様がピースケなる男について果たして、くだらない自惚れナルキッソ馬鹿か、
伝統音楽やめた堕落クソ破戒者か、生物学術界を撹乱する鼻つまみ者か、
どこにも属せない所詮ハミ出し者か、或いは概念の枠を越えた表現への挑戦者なのか、
ハテさてどうご解釈くださるかに関わらず、俺は独り作り続けるし、まだ世界へ顕在化し足りない。
大勢に評価されたい(モテたい・売れたい・勝ちたい・認められたい等)なんてところでやってないのだよ。


ただ… いつも言っていることだが、いいかげん長文疲れるんで…
今後はもう少し短めに戻していいかしらな。じっくり読みたいって人が結構おいでなんだわ、
電車で通勤時にちょうどいいそうで。読者サービスだわよ!

従って、長い!読む気しない!3行で!コスパタイパ連呼の手合いは、くたばれ。
評論家になるな!男は黙って行動だ!音楽は愛だけあればいい! の手合いも、くたばれ。
フンっはいはいはい分かってますどうせ天才と凡人の違いでしょ?! の手合いも、くたばれだ。

すーぐ短絡して考え、短文、短文、短文ばかりのコミュニケーション、
誰かが書いたネット調べりゃ手ッ取り済んじゃうTHE総家畜世代かよ。
おかげさまで学生の国語読解力めちゃくちゃ落ちてますが、そりゃそうよなバカのスパイラルやもん。
自分のバカの慰みに次世代がもっとバカであってほしい呪いをかけてたらいずれそうなるし、
いずれ賢い他民族に駆逐されることになるのは目に見えた運命です。
 
逆だよね。民族音楽とは何であったか、このテーマでこれだけ新機軸を書けてコラムできるんだよ。
見えないニュアンスを感じ取り、例え話を引っ張り、寓話さえでっちあげ、
連想力と創造力と伝達力の枝葉を広げられるということ。
そしてまた、凄い何かを借りて凄い人になろうとしている人間と、
ただ生み出そうとして出た物が何やら凄い人間とでは、質も量も歴然と差が出るということだ。
我ら才鬼の頓狂に憧れて、もがいたところで、先人踏襲レベルにしかならない。
表現という世界ではそこが残酷なまでに滲出するのだ。

 
情報過多・取捨選択の時代に、敢えて未だに古臭いウェブログ形態を採用し長文を繰り広げるのは、
長文をさらりと読解し脳内で再構成・再思考できない自己のレベルの劣等を転嫁、代償に、
「いまどき長文書く奴の方がバカだ病気だ」等と冷笑して憚らない連中を、
よーするにバカ賢い当方が選別して差し上げている
のである。
読むのを諦めた人には辿り着けない世界観なのだ。
 
むろん生じる、ハぁ?なにその上から目線ッ?! 神様気取りかよ…なる感情は一方で、
思考できない己という凡愚からの虚しい逃避行動なのだ。俺はそこを言ってる。
道具の恩恵・智慧の蓄積を見つめず表層の利便に溺れるばかりのゴイムに哲学は無用の長物。
古楽器の筐体という無用の長物の内からさえ哲学を見出さんとすれば、一層の。
この視点を踏み台に今一度考えてもらえると嬉しいのだがなあ。


や、短絡のほうが残酷ぞ? お望みとあらば仰る貴方の人生を、
ひときわシンプル3行で指してさしあげようか。せーの、


 安っぽい交尾の果てに勝手に生まれ落ち

 どうせゴミみたいに死に落ちて

 誰も気にしない



そ、そんな… そこまでじゃない…と思いたい…じゃない? せっかくの自分の人生を。

このとき楽器とは、実際そんな人生のドブ溝に溺れ、確かな自分の実体が欲しくて掴む ‘わらしべ’ だ。
何本集めてどう編み上げるかで浮力も説得力も変わってくるだろう。
「この民族楽器では日本で一番の…」を謳う者はみな、1本掴めば長者になれる幸運のわらしべを欲し、
1本掴んで長者の気に心酔し、1本に賭ける握力の純情をバクシーシバクシーシ褒めそやし合うばかりだ。
あの昔話は等価交換でカーストをどんどん転身していってるわけじゃんか?
成り上がり効率のパフォーマンス性向上など、当人以外の何の為になるのかね?

亦たサーランギーにおいてをや。やれ、
「インド政府の奨学金を得て留学、修行を重ね、ナントカ賞もらって帰国、生徒募集中!」の人生ねぇ…
お前もそうしてサランギ師匠になれと勧められたけど…
やっぱ型枠どおりでヤだなと蹴り飛ばしたもんね。だってそれでは自己の可能性の放棄、
まるきりインド文化の奴隷、自分発信の命の歌を歌えないエピゴーネン生産階級じゃないか。
そんな生き方しか選べないわけじゃないからね?

とりわけ奨学金。あれねぇ、カネのこと言いたかないし、色々な国がやってて聞こえもいいけれど、
魂を前借りの人質に取られ、忠誠と恩返しに奴隷人生を誓う、要は侵略的先行投資やからな?
異国文化の甘いエサぶら下げられてうかつに手ェ出さんほうがよい。魂の死です。
せっかく我ら日本人ぞ、この身のままに己の未来を夢見てなにが悪いのだ?

ところが奴隷志願バンザイ主義日本、祖国を捨て人生棒に振る家畜らしさを褒めそやし、
愚かであれと互いを呪い合い、外国とあらばようこそ見習わむ受け入れむと、
外国外国ニヤニヤエヘヘ、差別反対国際理解、分け隔てなく迎えよう…で、結果どうなってますか?
自国を憎み共腐れするよう仕向け、骨抜きの腰抜けに潰さんとする手合いに、騙されてきたんだよ!
売り渡すような真似事に溺れてうかうか “日本インド化計画” じゃねえぞっつの。

 
それとも現金に現金な現金の話をしないと分からないかな、
あまり過去の経費をあれこれ引き合いに出すのも品のないことだが、
ちょうど10年前に開催した伝説の博覧会「サロンドサランギ」展(2013) やるのに、
楽しんでもらおうと入場無料の代わりに、展示品手配代併せて全体で300万円くらい持ち出しました
ほぼ一人でこなしましたが仮に人件費を入れたらそんなものでは済まない計算です。
財源? もちろん働いてどうにか貯めたお金です。

ピースケ呼ぶとギャラとる!高い!酷い!悪人!
でも自分のライブは来て当然!褒めて当然!音や金時3500円!来てね!

…って考え方の奏者諸氏は、意味と勘定を多少なり考えてくれろよっつの。
わりと怒ってるからね、民族音楽趣味のパッツ人諸君。
君たちと我らチャトル人とでは、存在の意味、活動の意義が違うんです。
オイっピースケ!とタメ口きける立場でないはずだ。キュー!!

 クー!!


世界の音楽に学んでも、背水の陣で人生を賭けたコピーにうつつを抜かす鹿鳴館時代はとうに過ぎ、
向こうからじゃんじゃん映像が入ってきてこちらの胸ぐらを掴んでくるまでになりました。
ジャンルとしての民族音楽も、普遍的伝統至宝を担っているポーズで実際は止まって退化していますし、
どころかこの分野は自己実現ツール、いわば【 “じゃない方” だった己へのレンタル手慰み】に陥っている。
国際理解で自己実現などと格好つけなさるな、伝統の名の下に他人の生き方を借りた酷い自画自賛
自虐思考、ひいては逆差別と理解してはばからぬ面さえある。
 
ドブ之丞先生の例えはさすがに詭弁だが、今時分、本家本場にこそ本物!と宣う手合いは、
プレゼンターの立場でないと自我が保てない、偽りにあてがった自分らしさの殻にしがみつくしかない、
狭い専門知識ばかりあっても人間としては学びどころに乏しい人たちとお見受け申し上げますから、
適切適度なお付き合いに留め、あまり教祖様の如くに心酔し褒めそやし過ぎないこと。
なぜって、お互いバカ殿様とバカ信者につけあがり舞い上がるからですよ。
これこそ当該界隈における最大のダッフンダ。幾人も、幾人も、見てきました。
 
今後は我々自身、世界の学びの中にどう生き抜くかを考え実践する番ではないのか。
今を生きるということは、今というひととき自体に、実践する番が来ているということである。

ジェンベやケーナシタールやらは遠い国の民が各々の時々を生き実践した証明、かつ残骸であるが、
ならばとジェンベやケーナシタールを見よがしに奏でたからといって、憧れの生き様の投影にならない。
自らの無能に直面する絶望と恐怖に、手っ取り早く魅力的な “何者か” に飢え・すがりつく。
結局は背中合わせのスパイラル、本質であるとともに、創るという衝動さえもその渦から生まれるのだ。

 
お怒りごもっとも、しかし本当のことじゃありませんか?
大事なことなのでもっかいラディカルに申してみたろかい。

 やいやい、軒を貸して母屋を取られてんじゃねーぞ?!
 外国文化やってます~な人材は時代遅れどころか回し者、さては内側から日本滅亡を狙うスパイ?!
 日本にもたらすべき良いナニを持たぬ単純オレガオレガ承認欲求宣教師はもう結構!

と、このようにけしかけられた体裁で、異文化愛好家は己に問いかけてみてもらいたい。
思考の分かれ道はこうだ。

1)ハァ?! ナニサマ?! うるさい嫌い!! 自分は自分!! …と自我競走に一本槍のままか、

2)何?何? 生理的に受け付けない違和感キモっ…と壁バカ思考停止に沈むか、

3)惨めな敗北を認めたくない代償に子供じみた無視を決め込み自分を慰めるか、

或いは、

4)ふーむ確かに楽器をそういう見方はしてこなかったなあ、
  アッそういえば壊しても捨ててもいい安物のギターや縦笛が押入れにあったっけな、
  ヨシ、今度の日曜日に “進化” させてみようかな! と一歩踏み出してくれるか
だ。

俺はテメェら…こと、可能性を秘め燻らせし皆さんの心に眠る(4)のタネに呼びかけている。
俺を世離れした悪者に仕立てても自らを(1)(2)(3)に埋没させてはならぬぞ。
(4)を出来ず未熟さを呈したくない人は、未熟さを呈したくないから(4)を出来ないのです。


ご理解頂けようか、道具の発展という流れを受け継ぎながら新流を生み出すことの大きさを。
楽器は自分の手で組み上げてこそ。
でなければそのぶん未熟な借り物の追随者と申して過言ではない。

事実、様式ごと創り出し試せる人はどうですか? なんだかんだで凄く魅力的に見えますね?
既存の様式に従わされる時点で他所に頼りきりの劣等負け犬同然であり、
既存の様式への没頭ぶり心酔ぶり従順ぶりの深さ、→からの認められたさ→
→ からの自身の誇らしさに偉さ、→からの生きる理由に転化してよい理由にはならないと知り、
やるのは構わないけどプライドの置き処を誤らないこと。これが本当の謙虚さ、真摯さです。


ヒメスナホリムシ論でさんざん申し上げたことの蒸し返しになるが、
昨今、知り学ぶこと=イコール= 矮小な自分を思い知らされる =イコール=、
知識詰め込みで武装し崩されまいとする完璧なこの自分を崩されてしまう屈辱!と捉え、
どうにかプライドを守ろうと怯える人の多いこと。ネット知識社会の鬼子よな。
ひろゆき氏の達観な風体を装って先生を困らせるバカ小学生なんてその権化だ。

なにか間違ったことを申し上げてますか?
なんかそういう具体的なデータでもあるんですか?
他者のスタイルを真似るばかりでは輸入業者、既存の太鼓を鳴らすだけでは太鼓持ちである。
民族音楽とは、日々創られていく名もなき実態や現象を後付けに客観する総体的呼称であり、
有り難く浸り染まるべき据え膳コンテンツではない。この視点が徹底的に欠落してきたのだ。

「偉そうに語るな批評家になるな」と偉そうに語るでない。
「君は君のままでいいのさ」と知ったふりを装う者ほどお前のままでは薄っぺらいものだ。
「正しい伝統」をやってるつもりで評論と大差ないモノマネ遊戯に従っていても腐ってしまう。
いろいろ面倒な世の中だけど皆さんも早く次のステップへ行こうぜという呼びかけです。

他所様のドブ溝にわらしべを掴むな、己の泥にワラスボを掴むべし!

勘違い? ああそうとも、勘違いなまでの意気込みが、いずれこの国ひいては世界の潮流となる。
つまんない歌を与えられての歌手活動なんか蹴ッ飛ばして自由闊達シュフの道、
平野レミさんならワラスボ使ってどんなお料理を作るかしら? …たぶん垂直に立てるね。
かく申す俺のスタンス、怪奇楽器からトンデモ生物論に及ぶ作風もまた然り。
道具に道理に神仏への祈りを観る、いわば実用版・円空および木喰みたいなものか。


ときに、泥にひそむワラスボを引っ掛けて獲る漁法ならびに漁具 “スボカキ” は、
ウナギ掻き棒をいっそう細く特化洗練して現在の形がある。
使いやすく効果的に作られていなければ名人であれ充分にワラスボを獲れないのだ。
特化洗練するには、漁師の知恵や困りごとと、刀鍛冶の製造技術のすり合わせ、
すなわち ‘使う’ と ‘作る’ がよくよく融合しなければならない。

(と言いながら俺はウナギ掻きしか手元に無い。本家スボカキを見せられなくてごめん。
 ワラスボ用は刃がもっとずっと長く細く先端が丸ハテナ型をしてるんですよ。
 泥を斬り闇を暴く実用性もさることながら、たいへん美しい道具である。)

ところが皆、ワラスボの匹数や潟スキーの速さ器用さの熟達ばかりをスゴイスゴイ、
サーランギーは妙音の名手こそが熟達者だとばかりに褒めそやし、自分事の如く得意げに語り、
都合よくチャンネル切り替えて、日本スゴイ印度スゴイ世界スゴイ… 汚い泥の底までは潜って見ない。

あのね、熟達のスゴさより前、熟達のスゴさ以上に大切なこと。技を支える道具です。
刀鍛冶・サランギ職人の技術は最初から当前に存在していましたか?
もし道具が無かったら、漁師は佐賀の泥ドブス、ちょっと名手なんてサドゥー気取りの歌ルンペン。
技の研鑽とともに道具も磨かれ、両者を磨くためにはまた別の道具と技をも要する。

技の卓越ばかり見て、道具作りという地道な祈りを下段にみちゃいけないね。
サーランギーを直し作り道理を考えるプロセスを俺が大事に思ってる理由はそこ。
現在の形態とその伝播に至るまでにどれほど紆余曲折のトライアルがあっただろうか。

全ての道具類はどうしてそういう形の必要に迫られた理由があり、
そういう形になったおかげで漸く叶った凄みは、使う人の凄みには必ずしも直結しないのだ。
道具の特殊性を武器に ‘その分野をやってる特殊な人’ を気取って当人自身に何もない人にならぬように。

 丸太を回す「がんた」

自分が何者でもなく、自分を信じられない自覚から、外付けの何かしらをジタバタ欲しがり、
誰もやらない特殊技芸を自分が守っているんダ、文化を守る大切な役割を担っているんダと、
自分に言い聞かせないことには存在意義のなさに押し潰されてしまうのって、逆に弱さなんだよ。

“伝統の保守”とは、ともすれば無能弱者の隠れ場所、溜まり場に落ちぶれる。
どうにかいっぱしに鍛え、どうにか支え居座らんとする目的のもと、
いかにも尤もらしい居場所のを据えんがために、教義の流や処を名乗らねば客を騙せない。

この点においても、自分で美と闘い独自の世界を構築せし者が最強である。
お高くとまった上から目線だと? そんなどころではない、神そして宇宙の目線なのだ。

徹底して純粋に闘おうとすると、哀しい哉もれなくボンビーやむなしなんよね。
才の鬼・美の魔を腹に据え、確かなる安寧に頼らずとも花咲けるならよいかもしれないが、
花咲けぬと自覚する者ほど他所からのコンテンツを叩き仕込むより己を立てる術(すべ)が無い。

どうにか ‘伝統’ とやらの一端に居座って現世を愚痴るが、いよいよ革新的有能が登場するや、
たちまち日和ったり拒んだりと融通を利かせず妬み嫉んで追い出して腐りゆくのは、
やはり懐の無能、烏合の蓄積、ゆえのもはや腐敗の様式美なのである。

具象の中に形而上を紡ぐ意味などと… 共に思考の遊泳を愉しむ者の、どおりで居ないわけよ。
ここで引き合いに出して済まないが、サーランギーの場合、これまで会った演奏活動者は皆、
道具に問い道具自体を越えていく狂鬼の才まではお持ちでなく私と同等の対話にならなかった。
とりわけ音響原理と構造の工夫の面でからっきしでした。サーランギーなんか一番そのお化けだのに。

敢えて厳しく言わば、 常に新表現たるべく現在形=現代古典芸術用にまで進化した民具について、
確立された既存事例をなぞって煌びやかな上澄みだけをご都合ナンバーワン性を啜り、
既存の何者かになろう、最高の代弁者にあてはまろう、としている段階で本当の表現者ではない

だからこそ “偽物” の立場から芸術を“借り”、“努力” で “本物” 芸術に辿り着こうとなさっているし、
聴衆また他所様の芸を“借り” “挫折” せず “努力” せねば “本物”でないという固定観念に囚われている。
無一物コンプから倣って手に入れたお座敷芸の敬虔なる信者ぶり一本を武器に、
幼少から生物科学芸術じみた東京原住民と同等たり得るというのも無理な考え方です。

この場合、“奏者” は既製の技を磨く音のワラスボ漁師に専念され、
あまり俺が未来ひみつ道具で出しゃばって漁獲シェアを根こそぎ奪わぬが吉。
道具自体と文化の底アゲを願う気遣いってなかなか伝わらないものなんだよな。


限らず、残念ながら器楽愛好の人脈は予想以上にフツウのオタク止まりだったと吐露せざるを得ません。
民族楽器のバラエティを参考にもっと突飛に昇華発展していいのに自己の固定観念を越えることができない。
「 “がんばってください” (=愚かなまでに一心不乱な努力で他民族のマネに余生を捧げ、
他民族マネ信者の人生に死ねって認識です、天才じゃない代わりに努力で)
」との ‘応援’ は簡単だが、
これほど慇懃無礼で余計なお世話もなければ、自分を捨てる覚悟の道を決めた者に対して残酷でもある。

劣らず、頼らず、過去を受け継ぎながら、我々も創ろう!

…との呼びかけさえ、素直に受け取れぬほど諸君は鬱屈してるのか?
伝統と外来をミックスし頓狂に愉しんでしまうのが得意な民族だったはずだぞ、我々は。
界隈でよく耳にする「周辺文化の影響を受けていない営為こそ本物だ」みたいな文言は、
めっさ影響受けまくった偽物人間の自覚から出るんです。本当の現地はよく採り込んでモノにしてる。
電気やTシャツの無い頃の “貧しいけれど心豊かな…現代人が忘れてしまった” 憧れの生活という目線には、
貧しさだてらを評価してやってんだゾ永遠にやってろ!という上から目線があるんだよ。

かく申す俺もさんッざん無礼な酷いこと言われてましてね、
羨ましさ嫉しさを薄ら嗤いやお為ごかし説教で必死に隠す連中に。
さすがに反論すると俺が悪者のようにいい、理由は無いがお前はけしからんぞとこうだ。
天才なんて認めないッ!一般以下のバカ芸人であれッ!見下させろッ!の心がよく伝わってくる。

お叱りを一応は受け止めますが、後で漸くご自身でお気づきになりお黙りになるんですわ、
ああそうか根本から違うのか… アンタは天才だわ… ならもう結構ハイハイあっち行け終了…って。
いつもいつもそう。黙ってりゃ、いいかげんにしろよっつの。

そろそろシフトしてもいいかなと思い至るようになりましたさ。
何者かになりたくて手を出す他国の民族音楽などたかがしれていますし、
出来ることを尽くし謙虚に分野に貢献しようと気遣ったところで、
自己愛ばかりで社会性を伴わない烏合相手の付き合いはこちらばかり徒労です。
天才芸術家たちの為す仕事に ((( スゲェ… ))) と驚き、悔やんでいていいのか?っちゅう話。
おのれ凡愚を呈してなるものか!! の忿怒こそ次への扉を開く鍵だ。

今いちど民族音楽を為す意味と、俺のメッセージの真意を考えてもらいたい。
インド式に限らず楽器愛好活動の最弱点は “珍楽器便乗型・一番紹介病”
借り物であてがった自己実現であるから、ピースケ作品のような自由形の結果物を前にするや、
自分が一番でありたい自己認識に混乱が生じ、強い発作を起こす。

特殊な道具を見せて他人と違う自分を演じたい欲求は、よく理解する。しかしその病源は遡って何?
“どうせ無能日本だから神秘海外にひれ伏しマウント競争” 的観念から抜け出せないからじゃねえの?
真逆だよ、借り物を捨て競争を捨てて初めて真の自己に辿り着けるのである。

王の元を離れた幇間(ほうかん)が一端の藝術者たり得るか、芸道そのものが生き残りを賭け歴史に挑戦さる今、
誰に心酔ぶりを褒めてもらい認められねば自分の存在が薄れるようでは、未熟な宮廷道化師ではないか。
やってる音楽や楽器云々でなく、やっぱりあの人 “が” 凄い、あの人 “の” 凄みになるよう、
ジャンルを手放し捨ててさえも残る、真の王たるご自身を磨き上げていってもらいたいものです。

生意気を申す俺もまた既存の楽器群に満足も納得もいっておりませんゆえ、
研究活動は道具遣いから道具作りに及び、挑戦の深度もワラスボ漁の浅みに留まりません。
サーランギー芸術は勿論、やったことのない美術造形の分野にも乗り出しています。

いわば加山雄三を若大将に深海底曳き漁の心意気だ。俺の海よ~エンヤコラセと曳き揚げれば、
ワラスボどころか見たことも聞いたこともねえ深海生物が獲れるんだから。
この魚…食えるのか?売れるのか?などドコ吹くものぞ、
奴らは暗い海底に “とにかく存在しちゃう” んである。
見たことも聞いたこともねえ凄みのキミといる時が、ぼかぁ一番幸せなんだ。


/僕は死ぬまでタマキンのしわ伸ばさないぞ… \




これで今度の話いよいよの大詰め、幕引きまで今ひといきだ。従って、


*【アルダッロ・ツクーリァ】

[あるだっろ・つくーりぁ:美学・民族音楽学 芸術家、川﨑ピースケによる造語。楽器について、よく知られた形や用にあてはまらなくとも、作られ演奏されてしまえば世に在るのだから、伝統的な正しさや良し悪しにこだわりすぎず元々の自由さを楽しむべきとする考えかた。「有るだろう作れば」から。[類・対]転じて、外国の物事のありようを自らの知識や手わざのように披露するが、借り物の物真似や解説ばかりで自国への新たな貢献を生み出していない無力無能をいさめていう。イヴァンナ・アンタンジャネイロとも。

みんなも早くこの領域へ! 大いに創ろう。
いつまでも伝統踏襲ポーズで劣化コピー褒メラリタ~じゃ格好悪いですよ。

私の場合、かけっこも遅いし、ひとけたのたしざんのくりあがりさえも間違える身ながら、
幸運にも発想の異能だけは人一倍有し、おかげさまで国海外からお声を頂戴します。
ただ、可能性を日々発揮すること、とりわけ楽器の乱造というインナートラベル遂行に大変忙しく、
ジャパンのトキオに産まれたラッキータイムを無駄にしてまで留学遊びに出向けないのが実情。
俺が世に生まなきゃ二度と生まれない形たちが山ッほどあるからね。


エーッ海外行ったことないのォ?と、そりゃあ何度も驚かれてきました。
そこに何のコンプレックスも無いし、むしろ留学経験ナシが誇りなくらいです、
だってそのぶん実力だけでやってる生粋で本物の日本民族的証明になるわけですから。

逆にどうして皆さんは自らの手で楽器を作るという人生の旅もせずホイホイ海外へ出るのですか?
日本は学ぶに足らぬと思い込んでおいでだから、生きる意味を外にお求めなのですか?
そんな問いに「好きにすれば?」「調子に乗んなよコラ?!」とお怒りになるまでもなく、
どうせいずれ死ぬ日までを大切に、自分の調子で創ることを人生の大仕事にしています。

他人の生き様をコピーし一般人とひと味違う活動に携わる珍しい自分でありたい下心を捨て、
他人の手習いを振り翳して誰とも違う自分をアピールしたい卑しい下心を捨てて、
お客が誰一人いない舞台で “民族音楽” という虚栄な自己実現の子守唄を演じられますか?


…などと、やれやれどう弁解すべきやら、才ひけらかし啓蒙聖者の如き盛大な勘違い、
他者のバックグラウンドを考えず見下し酷評し断罪し散らすとは、
今回のような態度はまったく芳しくない、愚かなる人格です。
しかしその上でも私は問い続けたい。古今東西全ての楽器行為とはなにか。

変わった道具や技術を魅せる行為に隠した、真の名目は… えっ、単に自慢?
誰も彼も楽器のことで悔しがり欲しがるのは、せいぜい自慢か?自慢の補填のためにやってるのか?
楽器作りなど、テメェ独りで宇宙創造に照らしたつもりで、嫌味な自慢コンテンツでしかないのか?
ゾッと我に返る瞬間を覚えることがあります。じつにパラドキシカルよなぁ、
時々ゾッとして本質に立ち返るプロセスってすごく大切だと思う。


楽器… このややこしき彫像を抱え、自己実現自画自賛の狭間にすり減らす、生きる意味への問い。
わざわざ他所の営為を借りて見せびらかしてまで演出したかった楽器遣いの凄み、
努力でつかんだその凄みを元より持ち、操り、笑いさえ惹き起こす自慢ピエロにイラつくとすれば、
あるいは貴方の心の底の合わせ鏡にも自慢ピエロが住んでいるのやもしれないね。
頭さえ下げず超然といらっしゃる製作修理ご依頼など、特にそれを感じさせます。

他人への気遣い心配などする暇も隙も遠慮もなく己をドカンと表現したい表明したい衝動と、
自身の内に弄ぶばかりでなく社会に生かしてこそと願う抑制、楽器遣いはこの両面を特に孕む。

ただし外からハリボテた借り物を並べ立てるのと、己の内側から引きずり出すハラワタとでは、
結果の迫力にだいぶん差が出る
ね。俺はそこを言ってる、ハリボテか、ハラワタか。
アルダッロ・ツクーリァという、至極当然ながら日本が欠損してきた逆説を心に携えておくと、
そうした煩悶がクリアに眺められ、堂々と次の一手を打ちやすくなると思うんだ。



楽器好き各位は憶えておいてほしい…

ハリボテはいらない、ハラワタを見せろ。

ピースケ先生に褒めてもらいたかったら、ピースケ先生に褒めてもらおうなどと思うな。
ピースケ会長に認めてもらいたかったら、ピースケ会長に認めてもらおうなどと思うな。

しかし、なにが先生だ会長だ日本人なら皆同じダメ民族だと鼻白む隙あらば、諸君も創りたまえ。
美を創り美に貢献せよ。願わくば美を創る道具から創れ。美を創る道具を創る道具から創れ。
美を創る道具を創る道具を創る道具から創れ。この連綿がいずれ文化となる。
停滞した真似び、ましてや隷従的盲信は、悉く落第点である。


加藤諦三でした。


テレフォン人生相談、本日は神学者カール・レーフラー氏をゲストに、
興味深いお話を再三お伺いして、二度と戻らない皆様の貴重な時間を無駄に費やしました。

鬼連載「アルダッロ・ツクーリァ」に関してご質問ご感想ござるッてぇんなら、
いい度胸を当ウェブログにお寄せください。ただし誠に勝手ながら、
著者と同等レベルの哲学的遊泳を共に愉しまんとする方針から、

0)幼少にして誰に習わずともピアノやギターを傍らに既存曲や自作曲を演奏できた方
1)且つ、芸術ないしデザイン系4年制大学を現役突破し留年なく卒業された方
2)且つ、楽器にとどまらず新型機材をご自身で設計施工した経験が50品以上ある方
3)且つ、趣味の域でなく商工業として木材・金属・樹脂・電気ほか材料加工と直売の職歴がある方
4)且つ、その実演によって心霊現象および放送事故を惹起した経験のある方
5)且つ、そのため国内外に存在が知られるも面会依頼等を断ってきた
6)且つ、科学分野を震撼させる異常文學的原著を寄稿し専門家諸氏を鼻白ませた実績のある方
7)且つ、エロティック・グロテスク・ケモノ等の芸術表現に充分な耐性と持論のある方
8)且つ、おかげさまで狂人・怪物・悪魔と名指しされ疎まれる悲しみを抱えてきた方
9)且つ、死ぬまでタマキンのしわ伸ばさない方

以上の条件要素をもれなく満たす方に限らせて戴きま… や、ま、何かしら送ってくれりゃ、
答えられる範囲でケチョンケチョンのおぱんぽんに応えますよ。
往復ハガキに「ケチョンケチョンのおぱんぽん」とだけ、他は何ら書き添えずポストに投函のこと。


私は (9) が当てはまらないので応募資格がありません。











    サ ー ラ ン ギ ー 図 鑑     

★バイオリンは皆さんご存じのあの形状にほぼ定まっています。しかしサーランギーは製作者・時代・地方によって様々な自由形が存在し、今なお進化を続けています。特に弦数や配線は個体によって全くまちまち。これは、先人に学んでこう作らなければならない・本場の本家本元ではこれが正しい・こうでなければ本物の価値が無い、といった固定概念に縛られていないためです。ひとくちに捉えられないそれらをサーランピーでは「サーランギー属」と総称しています。

こうして並べますといかにもアジア諸国調査で得られた現地サンプルに見えますが、なんと殆どが日本国内で発掘されたものです。日本人の技術で修理を施しました。…そう言われると急に萎えますでしょう? みんな興味本位で取り寄せて結局すぐ手放しちゃうからこういうことになるのです。

しかもこの中には当方が捏造したオリジナル楽器をまことしやかにねじ込んであります。果たしてどれが現地の風薫る本家本物のお宝で、どれが世にもいかがわしい贋作か? 鑑定やいかに?…といったこだわりは、どうにでもなることですし、実のところどうでもよろしいことなのかもしれません。



チーペスト号  名古屋の誰だ号  結局ウチに号  

ボロ号  55号  黄泉号

グランピエ号 ジョギヤ 前方後円ジョギヤ 

カリマンタン号 恵さんでしたか号 そそるスリム号 

ドードゥロバナム ドゥカン号 サランガ

サランガ・ペタンコ エレクトリック チカーラー

チカーラー(近代版) サローズ アフガンサリンダ

ネパリ くさっぱら号 さらん弓(さらんきゅう)

サランダ  擦弦仮面 ダルマサンガ サランダ

ディルルバ エスラジ タール シェナイ

エスラマ ベラバハール カマイチャ

ラーヴァナハッタ ペナ エスラール
プールヴィーナ バリアジアン号 サラウドン
ストゥーパ号 ドドバシキメラ





    文 化 へ の 冒 涜 で は ?     


サーランギーの化石(カンブリア期)


いいえ、全く冒涜にはあたりません。サーランギー属は進化を歓迎し、地域毎に異なる展開を許す楽器群です

民族学・民俗学では、創作の混入は許されず、ありのままを正確にサンプリングすることで解明に努め、敬意を払います。つまり研究者はあくまで傍観者、せいぜい中途参加者であって、真の当事者にはなれません。研究者が自ら文化に手を加え、研究対象を自分自身とし、文化の歴史を塗り替える、これが許されるなら何だってやりたい放題になってしまいます。そのため研究者は、専門性・正確性への拘りにばかりにプライドを置き、しかし自分では大した表現が出来ない、融通の効かない方向へと人格形成されがちです。異文化理解を唱える本人が無理解とは皮肉なもの。サーランピーではこの状態を「スウェーデンポルノ女優のスリーサイズを精緻に暗記した童貞」と呼び、陥らぬよう自戒しています。

だども、オラ、この楽器がこの島でどう進化すんだか夢みちょる真ッ当事者の日本民族だで。何をどう作ろうと直そうとオラほの自由だ。オラが村の遊びがまんまこの楽器の進化の歴史になるだ。「インチキ業者」「思い上がるな」「現地の文化に失礼」「1人で騒いでるだけ」とお感じなのは、ひとえに貴方の心が許さないから。なにせその現地をはじめ世界各国からウチ宛てに「サイトを見た。修理はできるか? オリジナル楽器のオーダーは可能か?」と打診が来ます。もちろん断りますよ。てめーでやれっ。もしくはてめーの村の良さでやってみれっ。…そうすることがいつしか文化となるのだから。