◆ インド発祥の多弦胡弓「サーランギー(Sarangi)」類の話題を中心に、世界でここだけ前代未聞の怪研究・珍開発の数々を発信し続ける異常ブログです。同楽器取扱いの急先鋒にして生物学者や変態ケモナーとしても知られる異常造形作家【川崎ピースケが執筆運営しています。
研究テーマ:1)楽器「サーランギー属」、2)海のダンゴムシの仲間「水産等脚目甲殻類」、3)多肉・塊根・平行、栽培から造花まで「珍奇植物」、4)原材料・愛玩対象としての「羊」 、5)獣人表現「ケモナー」 、等を題材としたデザイン論と実践、特に生物型や生物利用の意味について。議題は多岐に渡り、追究の範疇としてエログロを含みます。* 近年(2)〜(5)の構想がだいぶ具現化したので、2023年から(1)の分野に戻りアプローチを再開できる運びとなりました。
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どうせウンコになるだけよ♪ 平野レミの!!「アルダッロ・ツクーリァ」(3) 鬼の巻(激辛)

民族楽器を無邪気に愛する皆様をいっぺん絶望と因果の淵に突き堕とす連載「アルダッロ・ツクーリァ」論はぼちぼち総括に入る。あまりの放言愚言に、いっぺん憤怒して、再考を経て這い上がれ。煽り役のメッセージの真意を掴み取ってください。やっぱ長いのでさらに幾つかに分けて更新することにしました。

おさらいから。先日ご縁あって譲り受けることになった、

まずまずネパールのものと考えてよいであろう型サーランギーの、
おそらくは職人の興から突発的に作られた?変異個体です、たぶん。

重量が随分あり、糸巻き周りの造りに甘さ粗さがあることから、
演奏できなくはないが実践に乏しいままオブジェにくすぶってきたものと推察されました。
なんで判るのかって、長年やってりゃあ作者の考え方ぐらい作風で伝わってきますさ。

改造前のようす

本来なら貴重な資料として現状データままをプチプチにくるみ保管室、
もしくは現地仕様を正しくなぞらえて吟味した本来の素材を用いて慎重に修復し、
研究演奏や特集イベント時のみ白手袋した学芸員が厳かに取り出して、
ネパール伝統のトピ(男衆みんな被ってる蕎麦屋みたいな帽子)を真似して被って、
ネパールの伝統曲を演奏して聴かせ、本場本家本元のネパール文化を再現すべきなのです。で、

~ヒマラヤの風の調べ~ ネパールの伝統音楽と楽器レクチャーコンサート、
6/25なんとか大学講義室、6/26かんとか寺本堂(チャイ1杯サービス) 、6/30音や金時3200円!


といった活動こそが民族音楽および文化人類学的 “正しい” 姿勢…なんですよね、皆さん?


だのに、や、やや、うわあ、なんとまあ、

改造のようす

こんなていたらくに魔改造されてしまったのであった。
なんですか、こりゃあ? これじゃもうネパールどころか、
何処の国の民族楽器でもなくなってしまったじゃないですかぁ?!

なになに?聞こえてきたぞ?

酷い!間違っているッ!ネパールのサーランギーの範囲を逸脱した勝手な独自解釈ッ!
ネパール式サーランギーに共鳴弦をつけることはあり得ないッ!
ネパールの伝統に対して無礼ッ! 無知は罪ッ!文化破壊ッ!

…鬼ぢゃ!鬼ぢゃ! 村がら出でいげェーーーーーッ!


っはっはっはっは、

 


間違ってるからなんだというのですか?
楽器というのはアルダッロ・ツクーリァなんです。作られちまえば、有るんだよ。
むしろ、どう? 以前のオブジェくすぶり姿より、

THE・民族楽器!!!!ッって感じになったと思わない?

なるたけ元々の雰囲気を崩さないまま、ゲッなんだこの楽器?!の佇まいと、
機能性の充実を同時に試みました次第よ。
誰にテヘペロの必要も必要性も無いことです。

テグス縒り太弦に掛け替えるとやはり自ずと馬頭琴式2弦同時ビャーッ奏法にしたくなるものだが…

おお… 共鳴弦よう共鳴すんね、フリー共鳴ソンやね。サランド・ロッジやね。
以下に経緯と詳細を解説して参りましょうぞ。



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楽器好きテメェら各位ちゃまったらいいかげん海外文化へのご信心が一辺倒すぎて、
やれ、サーランギーといえばインドサーランギーこそが真正神聖サーランギーでありッ!
ネパールのサーランギーはくびれ胴に特徴あるサーリンダー系に由来するッ!
区別して理解せねばならない!間違って呼称してはならない!
と思考を短絡しています。
や、ネパール人はこの楽器を「サーランギー」って呼んでんのよ。
日本人、弾けねえし作れねえのに、正しい理解もヘッタクソもねえだろ。

実態は方言丸出しの世界で、所謂サーランギーやらサーリンダーやらの類、
サレンギー、サャランギー、サランダ、サローズ、スーランドー、チカラ等々といった呼称があり、
サーーーーランギーーーーッって呼ばなければいけない!などとは決まっていないのです。
呼び名が色々であっても概ね同様の物品ならびに概念を指してきたと考えられ、
互いに由縁しつつも線引きはかなり曖昧で、形状・弦数・奏法は地域や奏者によって大きく変化、
きっぱり区別分類されたり一緒くたに考えられたりと、つまりは相当テキトーにやってるようよ。

弾けない作れない楽しみ分からない日本人がアスペルガーポケモン分類思考で執拗に、
“正確な採録と理解” ゲットだぜ!な態度で知識蓄積自慢したところで意味の限界あるよな。


その点をよくよく踏まえた上で、今回の変異個体についてはまず量感的な構造に着目しました。
この分野の研究で忘れられがちな存在 ‘ドードゥロ バナム(Dhodro Banam) ’ に随分似ているのです。

胴の下階で皮を響かせる・上階でその音を前方にはね返す間取りが、
ゴロンとした木彫り筐体をもつ皮張り擦弦楽器の基本になっているのだが、
特にドードゥロバナムの凄いのは、意匠が個体毎にめいめい異なることだ。
「遠足の思い出を描きましょう」の題によこしてくる小学1年生たちの愉快な色鉛筆画くらいに。
教えたとおりに描かなかったら居残りさせるぞ!な先生など、くたばれだろ?
でも楽器となると、決まった形で決まった曲を!な先生ばかりになる。くたばれだよ。

東インド、ヒマラヤ山麓の多地域より届く映像資料に似たものがしばしばみられ、
現物残骸としてネパールの古物流通に見かける様相があります。
結果、貿易発展で各国に散らばり詳細不明アジアンオブジェとして、異常な個体数で現存している。
そのうち幾本かが俺の研究室にさえ届いたということになります。

「ドードゥロ」が何を指す語か長年の疑問でしたが浜松市楽器博物館の見解によると “空洞” とのこと。
「バナム」の類にマニプル州の楽器「ペナ」、どちらも語感から推測して「ヴィーナ」の来名に縁がありそうだ。
…なんや、だったら単純に “木彫り胴の弦楽器” 程度の意味で呼ばれてきたものかと推察されますね。


次に、今回の個体をどう直しどう使うかを考えた時、4ペグ仕様ままにネパール民謡式、
外の2弦を主奏とし内の2弦を通奏に使い分けるのが本筋でした。
対してドードゥロバナムは極めて素朴なガット紐1弦ないし2弦です。
本来は正確なネパール現地仕様へ修繕するべきなんでしょうが、
当の現地がどうせ興に乗って作ったモデルなら上記どちらともつかない仕様に設えようと考えた。
太2弦にすると残った2弦は自ずと伴奏弦や共鳴弦にまわすか、使わないことになる。

すると、ネパーリーサランギ、ドードゥロバナムを越えて、

もはやカザフスタンの木彫り弦楽器、
‘Kobyz/Qubuz(コビズ、コブス、クーブーズ等)に似た仕様になるではないか?
と思い至ったわけ。
モンゴルのモリンフールやトゥバのイギルといった今や愛好家の多い楽器にゆかりが深いですが、
形から考えるに絶対サーランギー系統とも親戚、何処かで血筋が繋がっているはず。

この楽器も例によって名称とのぶれ揺れズレがあるようで、
伝言ゲーム式に徐々な変異を遂げているものと察する。
おそらく、遠く辿れば最早ギターになっちまった「火不思(ホーブスー)」やら、
東南アジアで明らかにウードを指す「ガンブス」に至る様相ながら、経緯詳細は知らん。
しかし名称はどれも曖昧に “弦楽器” くらいの意味で、各国が勝手に現物の認識を変えているとみた。
このことはサランギorサリンダ問題とも非常によく似た現状になっていると同時に、
知識ばかり正確さ競争にどれほどの意味があるのか?という視点の大事さを物語ってくる。

俺コビズ持ってません。写真↑はコビズのレッスン等について俺にメールご相談くだすった方が、
ようやく現物が届きました♪と送ってくれた写真の、せっかくこの話題だので勝手に再掲しちゃった。
なんでサーランギーの俺にご質問?と尋ねたら「似たような楽器なので」って。適当!
仰るとおり、確かにここいら界隈はそれほどまでに適当な、似たような楽器ですものね。

かくしてドードゥロバナムの存在は、サランギ・サリンダ類とコビズ類の系統を繋ぐ、
意外や重要ポイントではないか?と俺はとみている。
ネックからだいぶ離れた宙に弦を渡し、弦の横腹に指の腹や爪の甲をあてることで音を選び、
バイオリンのように指板にグッと押しつけない仕様であることも、不思議な共通点といえます。
多弦サーランギー或いグスレやガドゥルカはその権化もはや化け物と申せますね。


あ、何度も言うけど、こうした比較をさ~も最初から知ってて当然みたいにパクるなよ?
仮説には誤りもあるわけだし、出典を逐一記憶しておくように心がけないと恥かくことになるぞ。
俺に知識自慢のあげく「サーランピーに書いてあったんで!」と張り合ってくる奴とか、
「ここに詳しく書かれています…著者様だったのですね、この度は失礼なことを言ってしまい」とか。

0.0Xmmの隙間で音色が変化するんです!インド凄い!知ってますか?
 まぁネットにも書いてある常識なんで!
…書いたの俺なんスけど。

誰より愛!負けん気!が過ぎて知識と自己を同化のあまり、情報ソースという概念自体がすっ飛んでんのな。
端的に言ってバk………ラ…エティに豊んでいらっしゃいますですね~と申し添えておく。



で本題。世界はどうせ適当なことやってやがんだし、
少なくともこの個体はどう見ても伝統的セオリーを遵守しようとしていない。
まず、どうせペグ弱くて直さないことには使いづらいんだらば、

木の枝とか丸棒からペグ削り作ってもいいんだけど、
全く別の楽器のどうせ使わねえペグがあったんで再加工して新たに差し直し、
既存のペグを全部抜いてネック脇に差し込むことにしました。
ネパールのサーランギーのネックは提げヒモ用のドカ穴の開けるのが通例で、
これを利用すれば、共鳴弦をペグを移植するのにお誂え向き。

メイン弦はいつだかホームセンターで買ってきた普通のテグス糸、
共鳴弦はいつだかホームセンターで買ってきた普通のピアノ線です。

いわば共鳴弦付きネパーリー・コビズ!
馬頭琴の心得ある人ならすぐ弾けてワーッ共鳴する~ッ♪と楽しめることうけあい。
で気安く「ピースケさんッ自分の馬頭琴に共鳴弦つけるとしたら幾らですか?」言うなよっつの。

元来サランギやらサリンダっていう道具は概ねこんな調子でペグ付け外しを工夫され、
弦数を増したり減らしたりしていったはずで、まだぜんぜん途中なのです。
弦数進化の過程を実践でなぞるのと、現在の弦数の凄さを解説するだけのとでは、えらい違い。

かつ、いかにも昔ッからこうだったかのような佇まいに仕上げるところが、
日本人芸術家ピースケ大先生個人による美術にして技術なのダ(テヘペロ)。
ペグは垂直平行より無造作にブッ刺さってるほうがワイルドな外観になる
これ専用のメイン弦、共鳴弦、どこに売ってないですよね?
これ専用のメイン弦ペグ、共鳴弦用ペグ、どこにも売ってないですよね?
皆さんは未だに単なる既存の楽器の単なる宣伝マン? いま知りかじった知識自慢?

ええ、グギギを堪えたマニアックやな~よぅやりまんな~顔を幾度も見てきました。
或いは、ハハハ芸達者でんなぁ~面白でんなぁ~、
笑ったワロタ・ふいた草キモっ・思想強ッ生理的に受け付けない~、
それではここで狂った人をご覧くださいこちらです云々、
(((スゲェ…))) と素直に驚くのが悔しく客観的嗤いで濁す態度を幾度も見てきました。
そんなことのずっと先を考えて動いてんのよ、俺は。


おう、じゃあ嗤うこともふくことも草さえ生えない、
生理的に受け付けない、狂った仕様っちゅうもん見せたるわい。

皮を新調するにあたり、あいにく鞣してない生のトカゲ皮を持ってないし、
あいにく生きたオオトカゲを飼ってもいないので、

代わりに沖縄の三線用の蛇皮を張ってみました。大蛇を殺す手間が省けて楽チン!

なに?ヤマトンチュのピースケが、本場ウチナーのオジィに正式に習っての張り替えかって?
っはっはっは、知ったクチきくんじゃねえっつの。
 習うんじゃねえンだよ、張るんだよ。
むしろ今回の構造は既存の三線の皮張り治具を使えないので本場の職人さんが困るくらいです。

蛇皮も箇所によって硬軟がだいぶ異なりますので、蛇と対話するように相応しい手を入れていく。
有り合わせの工具を色々に使うのでガッチャクソなやり方にみえるかもしれませんが、
手数にはそれぞれ理由があり、結果的にパンっと張れているんだから、これでいいんです。
数を作るなら専用の治具を作ってもいいけどね。

もともと張ってあったトカゲ皮は所謂ネパーリーサランギに移植しました。

元の皮が緩んでたんでね、剥がしついでに燃やして塗り直して古美を出して。

こちらには、貰った…ジェンベか?忘れた、茶色く染まった太鼓の破れ皮を移植しました。


で、蛇皮はよろしいとしても、周囲にフサフサ毛が生えているのはなにか。

アフリカの太鼓のヤギ皮やシマウマ皮上に、本来剃るべき毛を装飾的に残すパターンはあるが、
今回は爬虫類です。皮に毛の生えたヘビなんて果たしていましたっけ。

ケヘビ

いえいえこれは毛ヘビでも、別途の毛皮をただ巻いたものでもない。
ピースケ名誉教授が動物を好きすぎ、動物の毛のぬくもりを好きすぎるあまり、

余ったヤギ皮の毛を少しずつ刈り取っては、その断面だけに接着剤をつけ、

蛇皮の上に少しずつ少しずつアデランスしていった結果物です。

ハァ?! 植えてるってこと??!!
そうだよ。次の皮替えか、破れたら全部やり直しです。
どの接着剤をどう使うと抜けないとか色々あるんですよ、キミんちの親父様と一緒で。


…なに? なんですと?

有毛ヘビなど実在しないのだから生物学的に混乱を引き起こす?
またそのような想像動物の贋作を三線に用いることは歴史的にも類例がない?

弦楽器に無駄な毛を生やしてしまったら楽器の振動が損なわれて音色が悪くなる?
ひいてはネパール国文化への侮辱に繋がる?

もっともらしいこと言ってくれるなよな、

貴方の持ち物じゃないわけじゃん?
俺がこうしたかったんだからこうしたまでだ。
楽器ってアルダッロ・ツクーリァなんですから。

 同じ写真使い回し
もう俺の国の楽器なのよ!

貴方が弾くわけでなし、弾くの俺ひとりなんだし、正しい奏法の線引きすら無いものに対し、
金や時間や技術を出したんでもない人らが外野からこうすべき云々と余計なお世話も甚だしいぞ。
どんなに知識があろうと、幾年月に渡って現地修行をしてこようと、今カンケェねーのよ!

だったらもうアンタ一人で勝手にやってれば?
山奥に籠って誰知らず勝手にやって死んでれば?

…って? ええ、言われないのに勝手にやって数十年。
死体を弄ぶネイチャーアートにしてアートネイチャーの極致!
こんな自問をどんな山の師匠が厳しく教えてくれるんだっつの。
誰に言われず自問の山籠り、ネイチャージモン?!


まだまだ勝手にやらせてもらうよ、クルリンパ。
このさあ、ヘッドの意味わからん2ツ穴も、

ひょっとしてこれ目のつもりやら知らないが、
目のつもりなんだったらネパール職人はこんな適当な仕事せんでさあ、

きっぱり開眼してやらんと申し訳が立たないじゃないか。
要らないキーホルダーの飾りを埋め込んで…

すると図らずもヘッドの形状が頭巾のように見えて、

伝説の鬼畜ライター村崎百郎さん仕様に!

     ゴミはいいぜぇぇぇぇぇぇぇええええ!!

    ゴミはよぉぉぉぉぉぉぉおおおお!!

ええ、半分朽ちた木彫楽器を弄び、痕跡から他人の生活を覗くなど、
人様んチのゴミ漁り、余計ヨソさまお世話様も甚だしい行為です。
脳を揺さぶるインド音波で民族音楽を下品のどん底に叩き堕とせ!

…思い出すなあ、俺むかし就職活動してて、新人ライター募集ありませんかとペヨトル工房に電話したことあってね…


さて、せっかく生んだんでそろそろ銘を与えてやりましょうかに。
既存概念の ‘あわい’ に存在するようなこの異様ネパーリーサーランギーについては、
先述のドードゥロバナムとコビズ系統の特徴を併せ持っている珍妙さテキトーさから、
両者名称を合わせて、そうさのう、ドードゥロ・クブズ… ドドゥロ・コビズ…
ドロドロ・ゥォブス… ドンドロ・ぅブズ……

いっそ語呂よく、

『ドロドブス [Drodobus]

と銘を打って愛していくことにしました。
パキケファロなんとかよりずっとゴロよいと思います。
日本サランギ魔改造の急先鋒にして超特大名誉教授サマサマのミコト之丞が左様に仰るのだから、
晴れてドロドブスの誕生なのです。あなたがどの外国へ行き、学び、持ち帰ろうと関係なく、
これはもうドロドブスです。定説なんです。サイババの勝手なんですよ。

さあ!ドロドブスで何を弾こうか?…って、俺も知らん。
モンゴルやトゥバの行ったこともねえ草原の風を気取ってもよろしいし、
ネパール民謡レッサムフィリリでもへーコラヒーコラ弾いたって差し支えないんであって、
でも…正しくは…と訂正したい気持ち、←それがもう既存知識の固定観念なんです。
出来上がった芸能をなぞるより、こんなんどうするんだよ?と悩むほうがずっと大事。

サラウドン、ドドバシキメラに、ドロドブス…
大恐竜博でも派手に催したろうかな思います。

 ・
 ・
 ・
 ・
 ・

ときに、皆さんよろしいか? もっぺんよくよくお考えくださいませ。

このとおり、この楽器は堂々と、すべてが間違っています
しかし事実ここにこうして存在し、ちゃんと演奏もできるのです。

民族楽器に自分勝手な解釈を加えてしまっていいんですか?とお考えですね。
間違った文化理解は許されぬ侮辱、ありのままに理解すべきでは?とお考えですね。
いいえ、皆様が物事を確かさの中に押し込むべく、
いかに正そう糺そう貶そう嫉もうとも関係なく、
この楽器は今ここにこうして存在し、私は日々の喜びや悲しみを胸に、演奏を楽しんでいます。
何処の民族を正しく理解がどうのでなく、日本民族として堂々とこれをやっているだけです。


大事なことなので全く同じことをもう一度。

この楽器は、ひとまず今ただ今、なぜこの仕様でここにこうして存在するのですか?

貴重なネパールのサーランギーを、日本人が自分勝手な解釈で改造したからですね。
ええ、その仕業が仮に勝手な解釈だとしても、しかしここに在るのは事実にして真実です。
見てしまった以上、こんな楽器は存在しない!と言い放っては嘘になりますね。

では改めて伺います。
民族の在りようをありのままに理解することが正しい民族文化学習なら、何故、
ネパールの楽器が日本に流入し改造され演奏された歴史的1ページをありのままに学習しようとせず、
「こんなのは本家には程遠い創作気取りの独学インチキ駄作でしかない」などと、
貴方個人の勝手で独断な解釈を加えるのですか?

元々はネパール産サーランギーであろう品が、縁あって日本人造形作家の手で進化し、
この姿で立ち現れたことによって、いまこうして見ること知ることが叶ったのだ…と、
出来事をありのままに理解して正確精緻に解説でもなさればよろしいのに、
なぜ貴方は頑なに、何を根拠に認めず拒むのですか?
小泉文夫先生や若林忠宏先生の民族楽器大全集に載ってないからですか?
ティラキタさんコイズミさんで扱っていないし教室も開かれていないからですか?

正しい理解と認識を持つことが民族音楽の是ならば、いま皆さんに許される態度は、

「ネパールから日本に渡り、この分野を手がける日本人芸術家によって改造された、
当該楽器研究における歴史を物語る貴重な資料である」
という理解と認識を持つことのみです。
無関係な非当事者は勝手な解釈を付け加えないで下さいね?

さあ、事実のみをどうぞ正しく “世界の楽器解説” なさってください、
いつもおやりのように、親しげに、得意げに、訳知りげに。
先生!なぜネパールの弦楽器が日本で改造されたのですか? 誰によって?
先生!なぜ共鳴弦が張られているのですか? 誰によって?
先生!なぜ蛇の皮が張られているのですか? 誰によって?



グ…ヌギギ…

ちょっと意地悪が過ぎたかしら。
民族音楽をお嗜みの皆様の、ご不満と苛立ちの原因をお答えします。

なべての違和感は、
【在り方が決まっていない・秩序づけられない状態への恐怖
からくるのではないでしょうか。

・「物事はすべて秩序づけられ在り方を決められなければならない」、
・「現地生まれ育ちの伝統人が・現地の素材・現地の方法になぞらえた物以外は愚かしい偽物」
・「愚かな日本人は本場の海外文化を正確に真似なければ本物の文化理解者になれない」

という考えかた自体が、論者の自己存在を理由づけたいがための勝手な強迫観念なんだよ。
自身の生きる意味が欲しいゆえに、他人が生きてきた意味を清く正しく“理解” してみせ、
すがり利用し同化することでしか自身の無力を支えていられないのをよくよくわかっているから、
それを崩すような論説が出てくるや必死の怒りになる。

べつに万人が海外を真似る必要もないし、入ってきた以上どうアレンジひねってよい分野、
ましてアジア擦弦楽器という変遷の権化のような分野にあってさえ、
「これぞ本物・本物こそ至高・日本人は無能」なる最後の突っ張り棒を失えば、ついぞ、
「誰とも違う特別なことをやっている自分」なる最後のつっかえ棒を失い、果ては、
自分もまた無能な日本家畜人の1匹だというコンプレックスに打ちのめされる。
だから特殊な専門性に憧れ、すがり、その見地からなら勝てると勘違い、
ひいては理解者然と振る舞い始めるわけです。スパイラルかもしらんですね。

ピースケみたいに民族音楽をめっちゃ勉強していてブランディングにはほだされない奴、
正確な採録が信条のはずの民俗学的にもとんでもなく大それたけしからん奴が、
海外現地ならまだしも日本から出てきてしまったのでは、日本向け専門分野マウントの有り難みが薄れる
そこが既存芸能踏襲ヤーたちの、…グギギ…グギギギ… の元凶になっている。
どっかの文化に取り組んでいることを免罪符に性格や態度のおかしい人をたくさん見てきました。

そもそも楽器のこれほど様々な構造、あれほど多彩に誇るデザインのバラエティは、
過去類例とは違うモデルを自分達で作って楽しんでしまうところにあります。
皆さんが躊躇し忌み嫌う「見本とは違うやり方」「勝手な解釈」とやらを、
方々の村々が勝手に加え楽しんできたからに他なりません。

地球の裏側、遥か遠き国… オンボローニァ村の木工職人ズッタボロー氏が、
伝統楽器ガッタピシュの新作を彫り削らんとする時、

   さてヘッドの彫刻は、鷲にしようかなぁ…熊にしようかなぁ…

    熊が鷲を食ってるところにしようかなぁ…

と思案して好きなように作ったらよろしいわけじゃんか。
そうしてツクーリァれたから色々な形がアルダッロじゃんか。
だから楽器って見ても聴いても愉快なんじゃんか。

で、こんな… 弦1本やのにこうも大仰に作る必要ないわけじゃんか。

でも、やってんじゃんか。やりゃあ、かっこいいじゃんか。
見た目も音楽じゃんか。だから楽器って見ても聴いても愉快なんじゃんか。

それをだ、
「伝統的な楽器ガッタピシュ、正式な発音でオンボローニァーイ・ガッータピィッシュは、織物の女神ボロキーレの神話に基づいて頭頂に女神像を彫るのがしきたりで、その彫刻こそが本流の証であり、女神像の無いものは真っ赤な偽物であり…」

とか理屈こねるオメェら自身、小学校のリコーダーもろくすっぽ吹けねえじゃねーか?!
ギターは駅チカの音楽教室に通って食いっぱぐれギター講師に習うわけ?


左様、どうかこのパラドックスを覚えておいてほしい。

「世界中の自分勝手な解釈」こそが「世界の民族楽器」なのだ。しかし、
「民族楽器の正しい理解」など「おまえの自分勝手な解釈」にすぎないのだよ。

楽器というツールが、神と人を繋ぐ使命を越え、アイデンティティ確立の御本尊にさえなる。
正確な踏襲こそが正確な踏襲なのなら、楽器という道具は今よりずっと種数が少なかったはずです。

…ま、アレンジを上手にひねるにはちゃんと一定以上の基礎と確かな腕前が必要ではあります。
オンボローニァ村のズッタボローさんは家具作りが仕事のメインです。
ズッタボローさんのお爺さんは村一番のガッタピシュの名手でしたが、
愛する家族・愛する祖国を守るために戦地へ赴かれ・消息を絶たれたという。

楽器は、人生のそばにあって、意外や物言わず、人生のこもごもをうつす。
聴くこと、弾くこと、正しく学び理解することなど、付随するわずかな部分だ。
それをやれ正しい違いを認め合えば世界はひとつ?便所もひとつ?
肝心の信奉対象が信仰の是に根ざしていないとあっては、ポケモン信者はすがる拠り所がないですね。


ああ、そうさな、前回「玉子」にもなぞらえましたっけね。こいつ…

日本好きのお調子者、スカコア玉子野郎くん

民族音楽の理解は正確に!と喚く頓珍漢を同様に申すなれば、ちょうど、

スクランブルエッグに勝手な具材を入れてガシャガシャ混ぜてしまったら、
 もはや正確な固さのゆで卵ではなくなってしまう!許されない!」

と喚くレベルで頓珍漢。今はスクランブルを楽しんでるんであって、
正しい茹で卵のお作法はどーのとか、どーでもいいのよ。

そして一層に重要なことは、文化によりけりどーにだって制定できるはずの、

「適切な硬さに茹でられた卵のほかは口にしてはならない!」

などという戒律さえ、少なくとも日本にはそもそも無いでしょ?
なのにひとたび民族楽器となるや、

「現地の約束事に即した学習なくして見聴きすることは畏れ多い…」

このしがらみはなんですか?その道に明るい先生が仰ったから?
察しなさい、それは先生が先生ポジションを守る為に仰ってるんであって、
あるべき姿を遵守する貴方の存在の素晴らしさには全く関係ないんだよ。
ひょっとしてご飯粒を律儀にフォークの背へ乗せてお召し上がり?

やれやれ、民族音楽ブームやら先住民運動の、芳しからぬ影響よな。

ゆで卵だけが卵じゃねえし、老舗の玉子だけが玉子じゃねえのんぞ。
具材のスクランブルこそが楽器の進化発展の隠し味である。


そこへきて平野レミさんは、アルダッロ・ツクーリァの権化、女神様だ。大好き。



 ♪ 騒いだり 踊ったり たのしい夢をつなぎたい
 どうしよう どうなるの もうどうなってもいいわ ♪

料理の工夫という表現を通して斬新かつ実用的な生活術を常に探求し、
確かな実力に裏打ちされた提案物を、気取らない命名で打ち出しておいでです。
綺麗に丸めたってサぁあ、どうせ噛んで飲み込んでウンコになっちゃうんだからサぁあ、
丸めなくったっていいじゃんおいしかったらサ♪
とばかりに、
丸く成形せずともコロッケ味を出せる忙しい主婦のためのレシピは、中でも著名だ。

いつだか作ってみたけどおいしかったよ。口に入れれば概ね同じ!
さくさくコーンフレークがポイントでした、無いとポテサラ然として終わる。
レミさんありがとう~言うて各自アレンジ加えていいと思う。
ツナマヨまぶして食ったらまた旨かったっけな。レミさんありがとう、また作ろっかな。

こうした自由な愉しみの現場にあって、やれ、野暮な奴がさ、
こんなの正統コロッケではない!本家本元本来の元祖は西欧のクロケットであり、
丸くて揚げてこそ正統なコロッケ! たこ焼きと明石焼の違いは…


なんつって、ほざける身分じゃねーだろ?どうせビチグソに変えるばかりなのに。

コロッケとは何か?という定義ばかりを死守したいが料理できない人と、
コロッケという営為自体の本質を見抜きつつ遵守もアレンジも自在な人との差は、
単純に「時代に贈る新しく楽しい物事が生み出せるか否か」の差だ。

同じくらい「音楽は正しくなければ」という概念それ自体がしょうもない態度だ。
言わずもがな、外国人の既成楽器の知識やら手習いばかりをひけらかして、
教わった勉強を出来るようになったぞ凄いでしょ!と振りかざす態度の愚かしいこと。

かつ不思議だなあと感じるのは、知識活躍ひけらかしッ子の競争心をよそに、
創作そのものを楽しむ者は得てして、創ったもん世にジャカスカ発信するわりに、
そのことで高評価されたい!歴史に名を刻みたい!といった欲求にはだいぶ無頓着なんだよ。

真の技術表現というのは無頓着に放っているようでも実力が裏打ちに滲むものです。
習い事こそが人間のアイデンティティを決めると信じ、柔軟な発想の連綿を許せない人こそ、
実態は借りてきた正統性に寄り添いしがみつかねばプライドが保てない日本人丸出し。
丸ごと卵コロッケのドロドブス和えなんか丸出された時にぁギギギ何も言えなくなるだろうな。
いちおう食ってみるくせしてね! ミシュラン食べログ?いくつ星?

  できたてほやほや!食べればコロッケ♪

   どうせウンコになるんだもん♪


さいですか、なおも信じてやまない権威の星いくつ主義、
専門家サマのご見解ご隷従主義でいらっしゃいますのならば、こう尋ねたい。
人類史上最高のドロドブス専門家は誰ですか?
あなた様は自分勝手な独断偏見の解釈を加えず、そのまま、ありのままに、
トップ専門家先生サマサマの仰る定説を正確に理解なさればよろしいんではないですか?

ならば敢えて云おう、我こそはドロドブスにおける、
トゥース!
地球誕生以来の最高権威であるのであ~る!
星の数、 栄光の…ゼロ…


☆・・・・・・。

しょうもな… いちいち言って飾らなきゃならんの?民族楽器って。

日本では最も…日本では一番の…唯一の…


近年、我が国の研究機関から趣味に世界に至るまで、
これだけ新旧雑多なサーランギー、とりわけ構造研究というものが、
バロックルネサンスリュート属色々を親しんでおいでのようにすりゃよろしいだに、
殆ど進んでない、進められていないのは、なぜだと思いますか?

これ実は、サーランギー界隈の進化変遷が無ッ茶苦茶で体系立てづらいことに加え、
ピースケ氏という存在が当該分野における藝大みんぱく同等レベル、
先行研究者なみに言及能力を持ってしまっている
からなんです、わりとマジで。
だって過去現在の調査どころか未来まで創っちゃってんだもん、我ながらズルイよな。

既存文化の後追いがご専門の奏者も学者だって、そりゃあホントの後追いはやりたがらないわ。
古い塗り絵冊子をクレヨン使ってどれだけ忠実に彩色できるか競争に夢中なのに、
挿し絵自体を描けちゃう画家がいたら、やる気なくすだろ?

でいて、なぜ皆さんは、その先行的研究者ピースケ先生サマサマが、
「村、州、国によって変わる様々な造形を楽しもう」とご提唱なすってさえも、
相変わらずサーランギーといえば「インドサーランギ」っていう楽器1択かのように錯覚・固執し、
インド凄いッターバン巻いてカレーッ!と最初から知ってるような親しみをお気取りなさる? 
答えは単純。知らなすぎるうえ、自軸も無さすぎて、受け取る器に乏しいからです。


これって致命的でね、おかげさんで博物文化の提示にも‘型’があんのよ、
相変わらず飽きずナントカの一つ覚えの如く、
「特別企画!遥かなるシルクロ~ドに想いを馳せ…」云々、
「ウードと琵琶は遠い親戚であり…」云々とご講釈なさる。
こう学び楽しむもの!っていう親しみのセオリー、わかりやすいパッケージで客を寄せねばならん。
まるきり今までに無い価値観を前にどう評価や鑑賞していいかが分からないわけ。

や、分からないならないなりに、何も考えんと全く同列に、
ものしりはかせの言うこと聞いてりゃいいんじゃねえの? つまり…
ほい、再び出番ですよ、ものしりはかせ。
「世界中から日本に流入した数多い民族楽器が近年、すべき所蔵資料ままばかりでなく、
 現役音具ときに日本独自の工夫を施しての再評価が散見されていることに注目したい。
 例えばこの楽器はネパールのサーランギーのうち大型とみられる個体が、

 日本人作家に手に渡り、大陸広域にみられる他の擦弦楽器の操作要素を盛り込んで改造され、
 近域の楽器名になぞらえ “ドロドブス” の銘を与えられた物品である」

“事実を正確に位置づけ”、 したらよろしいんじゃないの?
さあ、現地日本のありようを見たまま正確精緻に、
日本近代サランギ史として “採録” なさってください?


おのれ癪に触るわい…たかが個人創作の分際が公的学術ヅラしよってからに…

めっちゃ扱いづらいやろうね~日本の学術体系では。
なぜなら民族民俗学は有難きヨソさま後追い寄生虫に近く、
他方ピースケの変な楽器というのは既存分野に当てはめ処のない、
考現学せいぜいしょせん独自勝手アート気取り自画自賛自慰の範疇であって、
学術闘争に忙しい博士にゃ研究名目が立たんし費用もキャリアも積めんのよ。
両者を同列に考えてしまっては “紹介” しかできない担い手の自滅に繋がるのです。

…そのくせ秘境の独自アート爺みたいのを嬉々と現地ルポやりたがっだろ?
頓珍漢やわあ。世界の果てまでイッテウルルンふしぎ発見


学術のみならず、知識振りかざしひけらかし勢も同様です、
楽聖アミール・ホスローが、セタールを改良してシタールを作った」?
伝説の偉人たった1人の功績とは思えないし、あれ名前似てるからってイランのセタール直系ではなく、
タンブール系統あたりから徐々に派生してきたように思えるのだが、まあいい、かたや、

「悪魔ピースケ・スシロー・ショーユペロが、
 ネパールの楽器を改悪してドロドブスを生んだ」
のを、
両者どう捉えるワケ? インチキ日本人が手掛けたら全くのインチキ?

ホスロー出現は会ったわけでない遠い遠い伝聞、 スシロー出現は近い近い現代現実だ。
どっちもあくまで個人活動による来歴の一場面なのに、
なぜ来歴に全く無関係な日本人のあなたが、情報の真偽や優劣を勝手に取捨選択するん?
それは最初に申したとおり「他所こそ崇高、日本は無能、我こそ理解者・橋渡し」に根ざさないことには、
アイデンティティが成り立ち得ないアイデンティティにひねりあがってきた
からに他なりません。

そのくせ当の悪魔ショーユペロさまに楽器の相談だ依頼だなさるおめーたちゃどうゆう了見だよ?!
ショーユペロさまを勝手に位置づけ批判はするが、批判の根拠を結局ショーユペロさまブログに求める、
自分で考えて出来ない・考えちゃいけない、おめーたちゃいったい全体なんなんだよ?!
身近な能を蹴り捨てて、他人が作った世界を褒めそやすだけの係って、
なんかもう、至高の民族音楽という呪いで自身を無能に無能に呪ってるとしか思えないんよな。


決まった型枠にほだされないインド楽器というコンテンツさえ固定的にしか考えられない貴方達は、
日本人も改良してよい文化の延長線(延長戦?)としてこれを捉えるレベルにも達してないんでしょうよ。
悔しかったらやってみな?!

…誰に悔しがらされてるつもりだ、俺じゃねえよ、楽器を通じて世界にだ!
だからこそ俺はナニクソやってる日本代表ドロドブス選手なんです。よろぴく♪

あとこの牡蠣醤油…アフィリエイトじゃないですよ、書きたくて書いてる。
甘くなくてちゃんと牡蠣の味がして気に入ってんのに普通に売ってねえのな~。
お刺身につけると海産物の風味が一層増して抜群に美味しくなるし、
ちょっと塩気だけ欲しい時に冷蔵庫あけて2~3滴口ん中に垂らしちゃうもんね。

え? きったねえ生臭い二枚貝のズルンズルンの中身の潰し汁を豆の腐り汁に混ぜるなんて、
民族学的に間違った理解? 不潔で野蛮な日本食文化には先進国の指導が必要?

正式には牡蠣エキスであり……まあ、おいしそうではありますが…

ご尤も、ご尤も。
現実を解説しろったってピースケあんたが今でっちあげたばかりのものを、
どう正確に正統にせえっちゅうんじゃ?! …まあね。解説マウントお好きでしょ?

つまり本質は概念を創出する力量の差なんです。
事実・現実、小泉文夫が現れて、平野レミが現れて、川崎ピースケが現れてる。
といっても偉さや知名度や貢献度ではなく、頓狂に存在していくことが大事。
仰る、やれ、孔明劉備だ信長だ秀吉だ、ナウシカクシャナだサトシだピカチコウだのと同様に、
まんまご理解ご解説なさればよいのに、でも…でも…歴史上の人物は有名な歴史上の人物だし…
今生きてる人は変な人ばかりなんで…と、皆さんの胸の奥底にくすぶる苛立ちはなにか。

否、産まれた全員が歴史上の登場人物であり、

地球史上のきら星たちであるとともに、
いずれ全員が星屑と消えるまでのこと。全ては宇宙の気分次第。
クリエイションとは概念と概念が衝突して生まれる火花だな。

チェッ!! 自分を歴史上の登場人物と同等に思ってる勘違い野郎キモっウザっ生理的にっ!!
と喚く大衆こそ、“現れた” 側になりたかった羨望、凡愚な己への呪詛、丸出しではないのか?
だから歴史に成していない己の凡愚な生理を恨み嫉み、輝けるきら星に憧れてやまないのだ。

では、どうせ塵と消える我ら人類において、
民族音楽’ なる営為の大括りはいったいなにか?


…や、その大括り自体が幻影やもしらむ。
在るのはあくまで他所の先人達が生きる意味を問うてきた軌跡、
地域ごと歴史ごとに異なる、勝手にそう在り続けてきた在り方の痕跡のはずである。
民族ごとに出し物考えてネって決めた大括りに応えて各国が頑張ってるわけではないだろう?

なのに諸君はそれをそっくり拝借、生き甲斐フリーコンテンツのように仰る。
無能な自身の惨めさを認めたくない逃避から、既に有能なコンテンツを欲しがり、
滔々と解説することで偉大さを我が身にやつそうとしているのだ。

村々の民は決して解説者自身の生きる意味を支えるために芸能を膳立てしていないし、
真摯に採り入れて身につけた栄誉も真の所有物になり得ないし、
錦の手柄に見えるコンクール受賞の類さえ授与者・主催者の権威づけにすぎない。
本当のことを指摘されて忿怒の度合いだけ、そっくりそのまま自己の無さ、
帰属欲求の溺れからくる投影の愚かさの度合いではなかろうか。

…これさあ、一言でいっちゃあ、
自分探しを履き違えた戦後ニッポン迷子ちゃんクラブだ。

厳しいものだね… でもこの自省的メタ認識がとても大事になってくると思う。
分野に飛び込んだ人間が分野の架け橋ひいては分野そのものになれるはずだという認識は、
マイケルジャクソンそっくりさんのダンス上手がいかに尊敬と練習の賜物であれ、
そっくりダンスで牛丼屋に入り僕マイケルだから牛丼タダだよねポゥ?とほざく感覚に近い。
店員が困って断ると、スピリットを理解していないねアォ!とほざくようなものだ。

ところが民族楽器の誠に罪作りなのは、

手習いの披露ばかりで偉大な気にさせるところ。
希少な文化を担っていると言う自負が、文化を担っている希少な自分!の尊大にすり替わるんだよ。
「日本を代表する」だとか権威性を謳い出した時点でクソダサい増上慢といえよう。

はて、人生を意味あるものにしたくて、人生を棒にふる覚悟で飛び込んだ芸能が、
実態はどなた様の尻拭い、自分の人生など捨てに負けに行ってたどころか、
民族音楽なる括りさえも嘘だったって情けなさを…本当は心の奥で解ってるでしょ?
その鬱屈が自己の外面の塗り固めに向くか、内面の裏打ちに向くかが分かれ道だよな。
なぜならその煩悶の集積こそが生きる意味を問う土壌に化け得るからだ。

皆さんのなさりたい伝統的振る舞いは、ただお借りして弄んでいるばかり。
成人式の着物のようにだ。着たからといって江戸明治大正文化人になれるわけではないだろ?
でも民族衣装を着た途端、遅れた皆サンと違って異文化に浸ってますーッって顔する。
今現在の自分自身を生きることが叶ってない裏返しだと思うんだ。

何者でもない絶望と、アルダッロ・ツクーリァの開き直りと、
自国民族としての誇りが重なったところに、ふいに新たな形が生まれるとよい。
その命の火、火の息吹を消すまいとした尽力の連綿が、本来の“伝統”なんじゃないかな。

やいやい、そういうこったぞ、世界の楽器を愛するおどれらの皆様。
‘この楽器の魅力を伝えることが自分の使命’ みたいのは、勝手な思い込み、無駄なしがみつきだ。
思い込みしがみつかねば生きる意味が見出せないほどに、自身に自身の生きる自信が無いのだ。
せっかくの自分の人生を舶来サマの茶坊主にくすぶっていてよいのか? やいやい。


そろそろ日本国の日本民族として、伝統と流入の中にあって、
専門性に埋もれず、自分自身に新しいなにができるか、トライしてみたらよろしいんじゃないか。
大して凄いことできない現実に絶望しても、そこから漸く新たな、
むしろ真に貴方にとっての民族音楽の扉が開かれるのなら。

相撲取り 相撲やめても 髷をほぐしてエトピリカ

クライズラー バヨリン取っても 髷を結ったら相撲取り

ぐらいのバイタリティで今この瞬間を生き抜きたいものです。
お相撲も強そうやもんね、葉加瀬さん。どっしりして睨みも効いて。フォルティッシモ!(寄り切り)

さあ、今こそアルダッロ・ツクーリァの精神を奮い立たせろ!
思い思いの楽器を自分で作ってみよう!

…となるや、

途端に謎の照れ、躊躇をみせる人が随分多いです。
楽器ってのはちゃんとした本格的ホンモノ楽器と独学自作未熟偽物エヘヘ楽器があるわけじゃないんだよ。
とにかくやってみたらいい。見本通りにできなくたっていいじゃんか。
要らない棒切れ板切れでも組んで、理想の楽器ひいては理想の音楽作りにトライするのさ。

のに、できなさを晒す恥を日本の恥に転嫁、既に評価の高いナントカ国の芸能カントカ習得に逃避し、
劣等列島ニッポンに対しミステリーハンター的優位を気取って自身の無能をどうにか隠そうとする。
忘れるなよ、そのナントカ国の芸能は、棒切れ板切れのトライアルに端を発しているのだ。
芸能カントカをやってる自分を褒めろの態度ではいつまでも自らの人生を生きられないし、
ナントカ国の民たちだって、べつに他人の無能を補填するために棒切れ板切れトライしてないんだわ。

ここまで煽って尚も ((( 日本らしさを誇ることは恥ずかしい…日本は敗戦国だから… ))) とお感じなら、
よっぽどダメダメコンプレックスをこじらせ魂を押し込められておいでやもしらんですね。
或いは ((( まぁこういうのは本家とは異なるアマチュア創作楽器でしかなく… ))) とばかりに、
いかにもワケ知り苦虫な専門顔で肩をすくめたご評論の手合いか。

ほならね、そういう人は借り物でない ‘本物’ の仕事を成してきましたか? きたって仰るんですか?
人んチ上がり込んでものまねオタ活ばっかし? それが仰る「自分探し」?
その時点でご自身の人生に負けてるんです。


楽器愛好家たちよ、民族の叡智を前に、しかし隷従者になるな!

ご覧の貴方こそ、真の冒険者たれ!

インド人やネパール人がサーランギーを・サンタル人がバナムを・カザフ人がコビズを・
モンゴル人がモリンフールを・トゥバ人がイギルを作り弾いとるんです。
誰がどう言おうと自主的にやっとるんです。
それを知った顔で並べ語るそのお顔で、やれ日本人が作り弾いたものなら、
「インチキでしかない」と直結に不貞腐れる態度のほうが、
よっクソ鬱屈した勝手な解釈だよ、この、おたんちんの、うすらとんかちの、ドロドブスやろう。



…ベトコンの肉が入ってるって本当?


今回とりあえずここまでです。民族楽器大好きっ子各位は、怒るのまだ早ぇぞかんな。次はさらに別角度から議題を考察し、皆様がもう白目お剥きなさるところまで言及する。その最果てに「楽器を作る・直すという行為のシャーマニックな ‘凄み’ 」を痛感され、どうぞ固定観念の蓋を取り払って、民族音楽の先の創作欲をムラムラと血ィ沸き立てて戴きたい。…ヒール役を演じて煽り文言アジり倒す方も方で気苦労なんだぞっつの。概ね書きあがってます。




【おまけ1】

ストゥーパは作って20年弱経ってんのかな、忘れた。
吉祥寺で見つけたネパーリーサランギと、自由が丘で見つけた鐘楼のオブジェを無理くり接合し、
いかにも一本の丸太から彫り削られたかのように両者作風を整えたもの。

大スーパー鬼クソ大天才ピースケ大先生の確かな技術と審美眼によって、
本物?偽物?といった不毛な議論を吹き飛ばす奇跡の融合が実現!
‘奏者’ レベルで満足しとる人には発想をして真似のできねぇ1台です。


【おまけ2】

忘れてた、こちらも貴重な平野レミさんの歌声。

この歌大好きなのよ。小さい頃このレコードが家にあって、
張り艶のある歌声に幼いながらグッときてたなあ。Bメロのデュオんとこの情緒、
“雨降りゃお寺の天井からは 滝の水ほど雨が漏る”んとこのメロディー、最高。
お経シーンはキッズには少し怖いが、和の情景コミックソングとして極めて完成度が高い。













    サ ー ラ ン ギ ー 図 鑑     

★バイオリンは皆さんご存じのあの形状にほぼ定まっています。しかしサーランギーは製作者・時代・地方によって様々な自由形が存在し、今なお進化を続けています。特に弦数や配線は個体によって全くまちまち。これは、先人に学んでこう作らなければならない・本場の本家本元ではこれが正しい・こうでなければ本物の価値が無い、といった固定概念に縛られていないためです。ひとくちに捉えられないそれらをサーランピーでは「サーランギー属」と総称しています。

こうして並べますといかにもアジア諸国調査で得られた現地サンプルに見えますが、なんと殆どが日本国内で発掘されたものです。日本人の技術で修理を施しました。…そう言われると急に萎えますでしょう? みんな興味本位で取り寄せて結局すぐ手放しちゃうからこういうことになるのです。

しかもこの中には当方が捏造したオリジナル楽器をまことしやかにねじ込んであります。果たしてどれが現地の風薫る本家本物のお宝で、どれが世にもいかがわしい贋作か? 鑑定やいかに?…といったこだわりは、どうにでもなることですし、実のところどうでもよろしいことなのかもしれません。



チーペスト号  名古屋の誰だ号  結局ウチに号  

ボロ号  55号  黄泉号

グランピエ号 ジョギヤ 前方後円ジョギヤ 

カリマンタン号 恵さんでしたか号 そそるスリム号 

ドードゥロバナム ドゥカン号 サランガ

サランガ・ペタンコ エレクトリック チカーラー

チカーラー(近代版) サローズ アフガンサリンダ

ネパリ くさっぱら号 さらん弓(さらんきゅう)

サランダ  擦弦仮面 ダルマサンガ サランダ

ディルルバ エスラジ タール シェナイ

エスラマ ベラバハール カマイチャ

ラーヴァナハッタ ペナ エスラール
プールヴィーナ バリアジアン号 サラウドン
ストゥーパ号 ドドバシキメラ





    文 化 へ の 冒 涜 で は ?     


サーランギーの化石(カンブリア期)


いいえ、全く冒涜にはあたりません。サーランギー属は進化を歓迎し、地域毎に異なる展開を許す楽器群です

民族学・民俗学では、創作の混入は許されず、ありのままを正確にサンプリングすることで解明に努め、敬意を払います。つまり研究者はあくまで傍観者、せいぜい中途参加者であって、真の当事者にはなれません。研究者が自ら文化に手を加え、研究対象を自分自身とし、文化の歴史を塗り替える、これが許されるなら何だってやりたい放題になってしまいます。そのため研究者は、専門性・正確性への拘りにばかりにプライドを置き、しかし自分では大した表現が出来ない、融通の効かない方向へと人格形成されがちです。異文化理解を唱える本人が無理解とは皮肉なもの。サーランピーではこの状態を「スウェーデンポルノ女優のスリーサイズを精緻に暗記した童貞」と呼び、陥らぬよう自戒しています。

だども、オラ、この楽器がこの島でどう進化すんだか夢みちょる真ッ当事者の日本民族だで。何をどう作ろうと直そうとオラほの自由だ。オラが村の遊びがまんまこの楽器の進化の歴史になるだ。「インチキ業者」「思い上がるな」「現地の文化に失礼」「1人で騒いでるだけ」とお感じなのは、ひとえに貴方の心が許さないから。なにせその現地をはじめ世界各国からウチ宛てに「サイトを見た。修理はできるか? オリジナル楽器のオーダーは可能か?」と打診が来ます。もちろん断りますよ。てめーでやれっ。もしくはてめーの村の良さでやってみれっ。…そうすることがいつしか文化となるのだから。