◆ インド発祥の多弦胡弓「サーランギー(Sarangi)」類の話題を中心に、世界でここだけ前代未聞の怪研究・珍開発の数々を発信し続ける異常ブログです。同楽器取扱いの急先鋒にして生物学者や変態ケモナーとしても知られる異常造形作家【川崎ピースケが執筆運営しています。
研究テーマ:1)楽器「サーランギー属」、2)海のダンゴムシの仲間「水産等脚目甲殻類」、3)多肉・塊根・平行、栽培から造花まで「珍奇植物」、4)原材料・愛玩対象としての「羊」 、5)獣人表現「ケモナー」 、等を題材としたデザイン論と実践、特に生物型や生物利用の意味について。議題は多岐に渡り、追究の範疇としてエログロを含みます。* 近年(2)〜(5)の構想がだいぶ具現化したので、2023年から(1)の分野に戻りアプローチを再開できる運びとなりました。
★ 1記事内1主題の場合と、1記事上に短文加筆を重ねる【近業掬イ】(きんぎょうすくい)の場合がある。繁忙時はどうしても後者です。
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【蜚°助流外伝5】憧れすぎると進めなくなるの話


キャシーさんだけ呼んだのに、


っはっは、集まってきちゃった。てめーらは呼んでねえんだ。






おや、何ともフレッシュなお便りが。

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<ピースケさんと被るような話で恐縮ですが、
 サーランギ教室を開講することとなりました。

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そりゃ春からめでてえことだな。ヨーガ教室があるように、
カレー教室があるように、サーランギ教室があっていいじゃないか。
頑張って盛り上げてね〜とニコニコしとったら、
ついては主催する次のサーランギ特集イベントでの講演を依頼したいとな。

…うん? せっかく講師としてこれから頑張ろうとしている人なのに、
一番大事な所を自分でやらんでピースケ引きずり出してどうするの。


構想を尋ねてずっこけ。サロンドサランギ展まんまやないか。
サーランピーとそっくり同じ出し物にサーランピーの中の人が出てきたのでは、
そりゃどう転んだってサーランピーにしかなれへんやないの。
もうちょい練り直したほうがええべ、その企画。

参考にしてくれるのはありがたいことだし構わないんだけど、
せっかくなんだから独自の提案性というものをもう少しさ。



なにより最低限の依頼マナーが全くなってないことに驚かされた。
事をうまく運ぶための案内や段取りを置き去りに自己主張ばかりを先に立て、
丁寧な口調のつもりが却って威丈高に受け取られていることに気がついていない。

最もまずかったのは、無理を承知で!とグイグイ仰るわりに、
こちらが伺うまでギャラ交渉を渋った点だ。訊くとこうよ。

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<お伝えすべきか迷いましたが、
 民族音楽界隈のイベントの現状をご理解いただけるかと思い

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やぁ〜そりゃ完全に甘えだし基本姿勢としてNGだろう。ふつう早めに言うんだよ。
で自分はシロウトかき集めて授業料取りますっはっはっは、いやはやたいした…

音楽に限らず納品の現場でよくあることですが、こういうの当人にその気がなくとも、
〈あんたの実力はその程度。こっちが呼んでやるんだ〉と足元を見る、
一種のマウンティングの意図にしかならんのよな。その気ならなおのこと。
忙中受け取った側はそりゃ乗り気にはならないよ。

ロハでお祝いにでも行ったろうかなと最初は少し思っていましたが、
途中からこりゃ未熟でいかんと判断、心を鬼にして営業スタイルに切り替え、
至極真っ当な金額(=芸人の営業依頼としてはなかなか良心的な値段だが、
民族楽器を弾いて仲間内で遊ぶだけの集まりではとても捻出できない値段)
を見積請求して、つまりはお断り申し上げました。


「えっ…そう…です…かあ…。」だって。せっかくのお誘いを申し訳ないが、
参加を絶対もちろん当然のようにお考え戴いては困ってしまいます。
ごめんねピースケさんすげー忙しいんだ、自力で盛り上げてみてくれ。




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戴いたご依頼メールを読み返す。
要するに、褒めに来やがれとこういうことかしら?
楽器の勉強はしとるんだろうし飛躍したい気持ちも分かるんだが、
芸事の師匠、珍イベントの発信人、お客の招待人となるべくしては、
まだまだ学ばなくてはいけない余地があるようだ。


まず変に見栄や意地を張らなくてよろしいんじゃないかな。
自分の催しに招きたい人間に最初からライバル心をむき出しちゃ愚かだろう。
頼みたいけどプライドも邪魔して上手く言えなくて、何ていうかな、

<(自分はピースケさんに負けず劣らずサーランギ奏者としての発信力があるので、
  だからピースケさんより優位すくなくとも同等の地位・態度で頼めるはずですが、
  いえ決してピースケさんを意識してるわけでは… でも頼らせてはくれますよね、 
  えっギャラそんな高額… 相場の最低ラインさえ支払えば充分満足ですよね、
  私の教室を宣伝させてあげます自分の為に利用されてくださいお願いします…)>

といった焦りの気持ち丸出し。おいおいしっかりしろい。
対立心と依存心と、頑張りを認めてほしい期待、にしちゃ随分と甘い見通しで、
なんだかおかしな方向にご自身を縛ってしまっている。


いかんぜ。ピースケさんみたいにと憧れているうちは良い指導者になれぬ。
本当に真剣に邁進できていればそもそも俺なんぞを投影しないはずなの。
呪縛から早く解脱して堂々と己の道を掻き分けていかなくちゃ。
そうして得たスキルを独自の味に仕上げて発信する発想力と行動力を鍛えようぜ。
もし俺から盗める要素があれば、真似に留めず換骨奪胎してしまおう。

ひとまずは、相手の立場に立った依頼メール文面の作り方から復習を。
インド音楽もコミュニケーションです。舞台で仕事を振り合って音世界を編んでいる。
難しい楽器を弾いてるから人間関係は自分本意でよいなんてことはないはず。
ここぞという依頼を無礼だなと相手に受け取られ拒絶されたということは、
楽器を用いた意思伝達の習熟度もその段階だということに他なりません。


楽器を綺麗に弾く技能を得ることなど所詮スタートラインにすぎぬし、
弾ければたちまち偉い教授になれるほど音の道は甘くない。
この楽器が好きなんです勉強してきたんですって自己主張ばかり、
でも自分の引き出しの中のエッセンスは他人由来のものばかり、
だからセッションしようって急な機会には為す術(すべ)もなく慌てる、
そんな貧弱スキルを隠して「他人とはひと味違う自分」を嘯いてはいないか?

大切なのは、選んだその音具を奏でていったい何を伝え、どう生きるか。
そしてその為の下準備をいかに真摯に遂行するかなんだ。
頑張ってくださいね。





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…さすがにこのくらい言えばピースケさんの呪いから醒めて、
ガッカリです二度と頼まないですッと奮起、しかし結果的に独力でもって、
サーランギ普及に貢献する逸材として活躍してくれるだろう。
盛況な教室に、生徒さんに敬われる師範に、なってもらわなくちゃいかん。
門出を祝う餞(はなむけ)に代えて。


や、厳しい物言いかもしらんけど、俺より客の方がずっと怖いっすからな?
まして教室となると生徒さんの時間と尊厳を奪う責任を負うのだし、
全面の尊敬と信頼を師匠に寄せて門を叩いてくるわけで、
ハンチクやっとるとバレた途端に足元見て逃げてしまう。現金やからのう。

でねえ、直接クレーム伝えてくんないもんなんだよ師匠の不行き届きを。
あんなに居た生徒さんが何故か急にバタバタバタッと辞めたりなんて、
教え事してる人ならだいたいみんな経験してるはず。


同じ話の繰り返しで済まないが…
芸事の落とし穴というのはわりあい手前にあって、
例えばシタールなんて音が最初から特徴的だから特に穴が大きいもんで、
何年か取り組んでると文化の架け橋になれた気になっちゃうんだよな。
で、自分は先生!生徒に教える!って視点しか念頭にない、
人間的に足りない段階でコーチするから後々いろいろ問題が起きる。

音楽も、工芸も、科学も、動物園すらそのようなんだ、
専門家ってのは自分のテリトリーにしがみつくことでプライドを守ってしまってて、
他に武器が無いダメ人間だって自責の念なのか、なんかもう余裕なくて必死よな。
だから知らないスキル新しいアイデア提示されると途端にうろたえてムッとすんの。

サランギ手掛ける人たちがそんな狭いレベルに留まらないでいてほしいんだよ、
「私は日本では数少ない珍しい演奏家である」って所に安寧してないで。

深い思索と広い経験、様々な分野を見渡す中で達観し、
得た叡智を広く受け渡していける度量のある真の導師は少ないんだ。
本当はそんな人こそ先導者になってほしいものだが世の中そうはなってないみたい。
単なる商売人か、人生を導く師か、そこの違いは大きい。






とはいえこれは俺自身も深く反省しなくては。
むやみに「同志よ俺の分も頼むぜ応援してっぜ〜」と言ってしまうと、
ボク諦めたからヘコヘコお手伝いさせて戴きますよ〜の意味に勘違いさせてしまうかも。
めいめい勝手に活躍してってくれな〜の意味でしかなかったんだけどね。
挫折し放棄し屈服したからではないぞ、勘違いめさるなよ。


私が今いわゆる悠久のインド音楽コンサートを積極的にやっていないのは、
人類史上ピースケしか開けられないサーランギーの未来の扉を開くためです。
そのために残りの人生を費やしたいからだ。扉は1つじゃないし。

逆に言えば、インド音楽修行にひたすら励むだけがインド音楽修行ではなかった。
懸命に練習して、あちこちのライブハウスをまわって成果を披露して、
悠久なる天空の響きヨカッタデス〜って褒められて… その繰り返し。
底無し沼であるこの分野の心地よい温度(38〜42℃)に仲間とプカプカ浸っていては、
底無し沼の輝きを自ら閉ざしてしまうと知ったからなんです。

仲間で集まればときにライバル意識も生まれて良い励みにはなるんだろうけれど、
あまりギスギス俺が俺がとエゴを剥き出し合うのもなあ。
ましてインド音楽、あんだけシャンティシャンティ言っとる裏で、
誰の方が上手いだの、より本場に近いだの、理解が深いだの…
そういう怨念の溜まり場からは早く解脱しなくてはいけないな、とも思った。


考えてもみてくれ、かの国の文化の借り物と真似しか取り柄のない人生。
他のこと何もできない世間知らず。ではお前いったい何者だ?
我こそ当代イチの後継者を自認のつもりが、実態は単なる劣化コピー?
ふと気がついた時、後戻りするにはもはや時間が足りない。
老いてようやく自分探し。戦争反対? 反原発? 動物愛護? 大麻解禁?




いや、構わないんだよ先人の真似で。誰でも最初はね。
続けていればいずれ各々の障壁に立ち向かい乗り越えていくことになる。
そのとき果たしてどう振る舞うかなんだ。

自己の希少性を誇示するために他国の文化を踏み台にするのか。
他国の文化発展のためなら自己が踏み台になることをもいとわぬのか。
己の在り処をどこに据えるか、ここが芸術者としての最も重要なポイントだ。


文化は神輿のようなもの。担ぎ手が倒れ、次の担ぎ手が支える。
ただしあまりに神輿を崇拝しすぎ熱心にワッショイ担ぎ上げ過ぎると、
その場に立ち止まってしまい先に進めなくなる危険を伴います。
アマティ、グァルネリ、ストラディバリなんてその最たるものですね、
良い音のため良い音のため…って、職人たちは僕らの想像以上に、
過去の怨念に取り憑かれて窮屈にもがき苦しんでいる。

いっぽうサーランギーという神輿は在り方が全くの正反対で、
担がれる地域によってまるっきりデザインが変わります
良い音なんぞまるっくそ度外視した素っ頓狂の造形もしばしば。
ならば、真似に留まらず僕ら自身のやり方も同時に考えていくのが、
サーランギーがこれから進むべき道だと思うんだ。

インドにはインドのサーランギー。
パキスタンにはパキスタンの。
ラジャスタンにはラジャスタンの。
ネパールにはネパールの。
じゃ、日本には日本のサーランギーがあってもいい。

って言うとすぐ「日本人なら日本日本と押し付けるなあ、海外では」と耳を塞ぐだろ?
ふだん国際理解じみたこと標榜しといてそこへきて急に何なんだっていう。
コンプレックスだからこそ耳が痛いんじゃないのかな。



とはいえ、生き方はそれぞれ。
みんなは悠久なるインドにゆっくりどっぷり浸って楽しんでくれ。
いずれは悠久なるインドの方が俺から学びを乞うことになる。

実際そうなりつつ…




ほ〜らみろ、思いっくそウンコさん踏んだべし。
身の程をわきまえず偉そうに講釈たれてふんぞり返っとる人間には、
天の神様からこうやって相応の報いが下るものなのだ。



作らなくちゃいけない新型サーランギーのアイデアがあと3つくらいある。

1)カザフのコビズがもし多弦だったら竿はどうなるか。
2)その手があったかとインド人もひっくり返る新構成のサーランギー型古典楽器。
3)みんなが奏者になれちゃう廉価な体験版が作れないものか。

こいつらは俺がやらなきゃ世に出てこない。魔法使いと言わば言え。
インド音楽やってたんじゃインド音楽やっていくヒマがねえよ。








    サ ー ラ ン ギ ー 図 鑑     

★バイオリンは皆さんご存じのあの形状にほぼ定まっています。しかしサーランギーは製作者・時代・地方によって様々な自由形が存在し、今なお進化を続けています。特に弦数や配線は個体によって全くまちまち。これは、先人に学んでこう作らなければならない・本場の本家本元ではこれが正しい・こうでなければ本物の価値が無い、といった固定概念に縛られていないためです。ひとくちに捉えられないそれらをサーランピーでは「サーランギー属」と総称しています。

こうして並べますといかにもアジア諸国調査で得られた現地サンプルに見えますが、なんと殆どが日本国内で発掘されたものです。日本人の技術で修理を施しました。…そう言われると急に萎えますでしょう? みんな興味本位で取り寄せて結局すぐ手放しちゃうからこういうことになるのです。

しかもこの中には当方が捏造したオリジナル楽器をまことしやかにねじ込んであります。果たしてどれが現地の風薫る本家本物のお宝で、どれが世にもいかがわしい贋作か? 鑑定やいかに?…といったこだわりは、どうにでもなることですし、実のところどうでもよろしいことなのかもしれません。



チーペスト号  名古屋の誰だ号  結局ウチに号  

ボロ号  55号  黄泉号

グランピエ号 ジョギヤ 前方後円ジョギヤ 

カリマンタン号 恵さんでしたか号 そそるスリム号 

ドードゥロバナム ドゥカン号 サランガ

サランガ・ペタンコ エレクトリック チカーラー

チカーラー(近代版) サローズ アフガンサリンダ

ネパリ くさっぱら号 さらん弓(さらんきゅう)

サランダ  擦弦仮面 ダルマサンガ サランダ

ディルルバ エスラジ タール シェナイ

エスラマ ベラバハール カマイチャ

ラーヴァナハッタ ペナ エスラール
プールヴィーナ バリアジアン号 サラウドン
ストゥーパ号 ドドバシキメラ





    文 化 へ の 冒 涜 で は ?     


サーランギーの化石(カンブリア期)


いいえ、全く冒涜にはあたりません。サーランギー属は進化を歓迎し、地域毎に異なる展開を許す楽器群です

民族学・民俗学では、創作の混入は許されず、ありのままを正確にサンプリングすることで解明に努め、敬意を払います。つまり研究者はあくまで傍観者、せいぜい中途参加者であって、真の当事者にはなれません。研究者が自ら文化に手を加え、研究対象を自分自身とし、文化の歴史を塗り替える、これが許されるなら何だってやりたい放題になってしまいます。そのため研究者は、専門性・正確性への拘りにばかりにプライドを置き、しかし自分では大した表現が出来ない、融通の効かない方向へと人格形成されがちです。異文化理解を唱える本人が無理解とは皮肉なもの。サーランピーではこの状態を「スウェーデンポルノ女優のスリーサイズを精緻に暗記した童貞」と呼び、陥らぬよう自戒しています。

だども、オラ、この楽器がこの島でどう進化すんだか夢みちょる真ッ当事者の日本民族だで。何をどう作ろうと直そうとオラほの自由だ。オラが村の遊びがまんまこの楽器の進化の歴史になるだ。「インチキ業者」「思い上がるな」「現地の文化に失礼」「1人で騒いでるだけ」とお感じなのは、ひとえに貴方の心が許さないから。なにせその現地をはじめ世界各国からウチ宛てに「サイトを見た。修理はできるか? オリジナル楽器のオーダーは可能か?」と打診が来ます。もちろん断りますよ。てめーでやれっ。もしくはてめーの村の良さでやってみれっ。…そうすることがいつしか文化となるのだから。