◆ インド発祥の多弦胡弓「サーランギー(Sarangi)」類の話題を中心に、世界でここだけ前代未聞の怪研究・珍開発の数々を発信し続ける異常ブログです。同楽器取扱いの急先鋒にして生物学者や変態ケモナーとしても知られる異常造形作家【川崎ピースケが執筆運営しています。
研究テーマ:1)楽器「サーランギー属」、2)海のダンゴムシの仲間「水産等脚目甲殻類」、3)多肉・塊根・平行、栽培から造花まで「珍奇植物」、4)原材料・愛玩対象としての「羊」 、5)獣人表現「ケモナー」 、等を題材としたデザイン論と実践、特に生物型や生物利用の意味について。議題は多岐に渡り、追究の範疇としてエログロを含みます。* 近年(2)〜(5)の構想がだいぶ具現化したので、2023年から(1)の分野に戻りアプローチを再開できる運びとなりました。
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『 にこたまかわら はなもぐら 』 ~最上壽之教授を偲ぶ小散策~


二子玉川駅高架下、

河川敷のごみ屑・瓦礫だまりで出会った[※]、美しい石礫。

きれいに磨いてあげたら、

足が生えて、鼻デカもぐら君みたいになった。

おニューのズックを履かせてもらったよ。

うれしいな。小さな旅に出掛けよう。

[※] 河川での石の採取は管理者の許可が必要です(河川法第25条)。この条項自体が一切の行動をただちに禁ずるものではなく、可否や程度の判断は管理区域によって異なります。価値の高い鉱物が産する河川では厳しい禁止令や監視が敷かれており、みだりに採取を行うとトラブルに発展しますので、ご予定の方は本稿を鵜呑みにせず管理担当各所にお尋ねください。

本作石材の発見地である多摩川下流は昭和初期まで産業としての砂利採取が行われてきた地域です。そこで以前、許可申請書式等を管轄へ問い合わせたところ、個人的な石拾い遊びの範疇を越える行為、例えば重機で乗り付けて持ちきれない重量を掘っては売り捌いたり、継続的に居座って工作や耕作といった目に余る様相でないならば、逐一に咎めていないとのこと。また内水面はマルタウグイの産卵地であり誘致の石積み造成が施されるので崩さないよう。法令と管理に照らし、護岸整備上の懸念の薄い=水面から距離があり植生に乏しい砂礫堆より見出した本作分ほか小礫の計少量を採取の限度とし、以降は当該採取を行なっていません。標本を地域の自然と文化を考える非営利の研究活動に役立てるとともに、生物調査や清掃ボランティア等を通じて多摩川環境保全に努めます。




〜 = 〜 = 〜 = 〜 = 〜 = 〜 = 〜 = 〜 = 〜 = 〜 = 〜



モガちゃん先生のこと前に少し書いたんでだいぶ重複しますが、今少し詳しく…
武蔵野美術大学・工芸工業デザイン学科(通称「工デ」=こうで)の生徒だった頃、
とりわけ印象深かった、他学科の教授の話から、まず。

美術学校の学生だからといって皆がみな典型的な、やれ、絵の具まみれのツナギ服を着た、
私の表現!! などとさっぱり意味わからん売れない奇行ゲージュツ馬鹿なわけではなく、
ちゃんと社会に役立つ造形美すなわちデザインを志して勉強しに行ってんのね。俺も後者のクチ。

映画の影響もあり、我が道アート全開の彫刻家になりたい気持ちも過去には芽生えましたが、


自己表現スタイルの対峙と他者受容という別角度で観るとなお愉しい映画ビートルジュース。引っ越してくる都会かぶれ家族の奥さんが自作の彫刻に襲いかかられる展開に。自己満ゴミ作品どーにかしろよの設定ながら、意外や形も空間も良くてね。彫刻家いいな~と思ったものです。

今後の世相や人生を考えるに作家一本槍では心もとなく感じられ、
実務に繋がる方法論や技術を磨きつつ自由にアートする心意気を忘れなきゃいいじゃないかと、
いわば実用彫刻、おのずと商工業デザイン方面にしぼり、武蔵美多摩美・造形大のそれ系学科を受験して、
現役で拾ってくれた武蔵美に就学することに。なお東京芸大は最初から志してません。
そんでいま民族楽器から放送用まで広く扱う音響装置のプロですから、一貫してるっちゃーしてっか。


なので工デの授業といえば製品意匠や素材研究が主でしたが、いっぺん芸術の基本姿勢に立ち還るべく、
デザイン学科生でも「共通絵画」「共通彫塑」なる純粋アート実習を履修しなきゃいけなかったの。
ついては偏屈… もとい… 頭おかs… いえいえ… ゆにぃ~くな当代きってのアート作家、
NHK日曜美術館が特集を組むような芸術家を教授・講師に迎えて指導を賜るわけ。

「彫塑」は共通科専任の先生または彫刻学科の先生が兼任で受け持ってくれた。
様々な視座の先生方から教えを賜ったけど、中でも個性的だったのは、
最上壽之(もがみ・ひさゆき)教授、愛称 モガちゃん先生かな。

直接に最上ゼミご講義を賜ったわけではないのですが、先の共通彫塑の授業で少しと、なにより存在感。
彫刻学科生からの人気もひときわで「…キチガイ「あのヒトはヤバイ」
「頭イっちゃってる」「凄い良い先生ですよ!頭おかしいけど」
「宇宙と交信してるらしい」
と実に上々のご評判でした。…電波系?


次に、最上先生にお目にかかる前後段階について。
知らず知らずのうちに作品を存じ上げてたのを後で知ったの。
とは、この↓差してる冊子ね、これ高校ん時の美術の教科書の裏表紙なんだけど、


▲『笑、笑、笑(は、は、は)

この木彫りの巨大な、ギザ、ギザギザ、なんですか。意味わからん。高さ165cm!
意味わからんけど不思議と朗らかで印象に残る。
開口して大笑する人々にも、或いはその雰囲気の象徴像にも見える。
重量級の木材で役に立たん物体ドシンと創るっていいよな。芸術だな。

本をまだ持ってるのはこの作品の印象を忘れられず捨てられないからなのですが、
当時から何かピンとくる…或いは御縁もあったのかもしれません。
ただ当時は作家名まではうろ憶えだった。

 

のち武蔵美に通うや、え、なんか謎の呪文を突如絶叫ヒゲメガネもみあげ熊五郎さんがいるぞ。
そのとき聞いたのは「クカクカ、クキクキ、クケクケ!」でした。
やべえ。あのおじさん…教授? ナニ学科?

 

さらにのち、う〜んあれコピーさせてもらえばよかったな、
課題のプリントなのか私的にまとめたペーパーだったのか今となっては知るスベが無いけれど、
ジャズ研の部室のドア前で見せてくれた、彫刻学科講師の作品を紹介!の紙面がとても良くて。

現物ナイんで俺がいま↓記憶スケッチで描きました。こんな感じの…

この↑石の作品にドっキ〜ン(はぁと)ときちゃってね。

戦艦みたいなデカ岩鉄板1枚ッペラに垂直に支えられて地面から浮いてんの。
鉄板の刺さり位置がド中央から若干ズレてるのもバランスが良い。素晴らしい。
なにそれッ、コレこういう作品?! 面白い!カッコイイ! 見せて見せて…

なんなんだよ、なんなんだよ、これはっ。
あのねえ彫刻家っつーのは難しい顔して巨石からヴィーナス像だの彫り出すのが仕事じゃい。
それをただプゥっと ‘浮かす’ っていうッハッハッハッハ。
これで新進気鋭モダン彫刻を喝破してはばからない突き抜け方がおかしみを誘うね。
だけど実際に作るとなると大仕事だぞ、クレーンで吊ってひっくり返して板を立ててひっくり直して。

重量級の剽軽、牧歌と狂気、頓珍漢をやり抜く意志の相まった不思議な感激に、一発で心奪われた。
これ彫刻学科のどなたの作? …モガちゃん? モガミ先生? って、ひょっとしてあの…

 

遠回りを経て初めて全部が繋がったわけ。
石の謎彫刻そして高校の教科書の謎ギザ木工こそじつに最上教授の手による作品であり、
まさにその教授こそあの呪文絶叫ヒゲメガネ熊五郎先生であったのだ、 合点合点。

ほどなく大学構内の12号館前でお見かけし、追っかけてつかまえて、
僕、工デの学生です、先生の、岩が鉄板1枚に乗って浮いてる作品好きです、
ぜひ現物を拝見したいのですがと伝え、

 記憶スケッチ無礼ご容赦ください
ホント? ウレシイナ。 あれはネ…

少しだけお話を伺うことができました次第。
しかし作品はだいぶ遠方にあること、代わりに横浜で観られる大型の近作、
倒れぬよう地中で支えている構造、公共に据える作品というのは風雨で傷むし、
自治体の判断でどけられちゃうことさえある、等々。
「いい天気の日に空の下で昼寝するとサ、体がだんだん浮いてく気持ちになるじゃない」


  ・
  ・
  ・
  ・
  ・

…っきりになっちゃったなぁ、学生という未熟な機会に思い切り甘えるべきだった。
それからあまり構内でお見かけできなかったこともあって、
もう一歩のアプローチを考えたけど自分の工デの課題や就活準備に忙しくなり、
やっぱ他学科生の分際でお邪魔は申し訳ないし… とマゴマゴしとるうちに、
モガちゃん?あーなんかいま外国行ってるみたいよ?ってガビ~ン。
そして俺の卒業年の数年後に武蔵美を退官なさり名誉教授になられたとのこと。

 ↓

さらにさらに後になって漸く、石の怪作は『ポカポカオヒサマテルホドニ』という意味わからん題で、
山口県宇部駅前に設置との情報入手に至る。周辺案内ホームページさんご紹介ありがとう。

宇部市は彫刻愛好にひときわの街とのことで、駅前にドンと構えることで尚シンボリックに映る。
実体を気になる人はぜひ作品タイトルで検索されたし。とぼけ具合に黙るしかなくなると思います。
見せてもらった紙面では鉄板こんなヴィヴィッドな赤じゃなかったように記憶してたけど、
いかにせよ、いま見ても、どうみてもヘンテコリンな作品だ。

 ↓

そして2018年、最上先生のご逝去を伝え聞きました。
今一度お目にかかりたかっ… 否ッ! 芸術家たる者、肉体の昇天が何するものぞ!
作品という生き様に、街に、まだ生きている!




ほんで、つまり何を言わんとしているか。

 ピースケ作「イーミーナイフ」

立体作品を楽しむ時、俺どうも ‘最上壽之’ の彫刻空間に影響を受けてモノを見てるんだな。
といっても作品やスタイルの真似ではなく、素材と夢想に対峙する芸術家の生き方の面でね。
なので今度は逆にそのプロセスをもって改めて最上作品を鑑賞しに行きたくなったんだよ。

 同「天秤」
釣り具の‘テンビン’が美しいので額装しただけですが。

彫刻の頓狂たる由縁と時空はそうして繋がり循環していく気がするのです。
ワガルガナア、ワガンネエダロウナア。

木組みの抽象立体が多い先生の作品群中、石を主体とした作品に特徴的なのが、
剥き出しの原石ままをゴロゴロと自在に遊んではスッとぼけてみせる心意気。
非常に小気味良くて毎回笑う。どの作品もアッケラケラリンかつ絶妙のバランス。
効果的な施工技術をよくよく検討してこそああいうヘンテコが出来上がる。

俺もどちらかというと石は石まんまを愛でたいor加工は最低限でよい派。
木・金・土・プラなら加工して融通を利かせたいけれど、いつか自分が石に挑む機会があったらば、
テメェが何を作りたいかじゃない、石の良さをまんまに遊んだるぞとずっと思ってきた。
せっかくの美しい原石を単なる彫材とみて作家のエゴな具象をチマチマ彫り出すことのせせこましさよ。

一方で石の彫刻というのは出来上がってドンと据えたら、まず動かさないじゃんか。
移動運搬はひと仕事&費用も高額。会いに行かなきゃいけないのが難点だろ。
ことに最上作品は巨大なので手元でアートピースを遊んで親しむということがしづらい。

そういうわけで俺は俺自身の石のミニ彫刻に足を生やして、

 このメモ1枚で方向性を決定

こちらから歩いて遊びに伺っちゃおうと思ったの。

彫刻が自分から出先に出向けるっていうところまで含めて俺の作品。


加えて余談ですが、

じつは俺がオーバーオール着始めたのも最上先生の影響がだいぶある。
ツナギもお洒落な熊先生、THE・芸術家!といった風体で。キチガイファッションリーダー!
米国の田舎のバンジョー農夫っぽいトボけた印象には前から憧れてたけど実着は大学時代からだな。
かたや工デのインダストリアルなんざプレゼンゴッコにかしこまりスーツだぜ商社くせぇ。やんなるわ。


〜 = 〜 = 〜 = 〜 = 〜 = 〜 = 〜 = 〜 = 〜 = 〜 = 〜



↑っていう前提譚を先にしとかないことには、

せっかく気持ちの良い自然公園に、

◀︎『タイヤヒラメノマイオドリ』

いきなりこんなん↑↓ドカーンあったところで意味わかんねえすぎるだろ。

レダヨ コレダヨ、モガミセンセノ スットンキョ。
クカクキ クケクケ イシ マンマ、ナンデコンナノ デキタヤラ。
タイトル ヘンテコ カタカナゴ、イチジガ バンジ コノチョウシ。

鑑賞者各人で自由に感じてもらっていいんだぞ、と今にも仰りそうだ。

魚達が海底の大岩の上で愉快に舞い泳ぐ軌跡にもイメージできるし、
巨大な大脳のハチャメチャな思考行為そのものを描き表しているようにも見える。
結果的にちょっと縮れ陰毛っぽくなったコミカルさも暗黙に承知の上かな。
「ケッコウケダラケアソコノケ」でも成立しちゃいそうな勢いよもん。

石に鉄棒グシャグシャ、こんなのが芸術なら誰だって!とお考えになるやもしれぬ。
芸術の早慶大と謳われし難関校の、ましてや主任教授の作品が、コレ…

オゥともよ。威風堂々コレだよ。
だったらそんなコンナなもの実際に作るか? どう作って、運び、魅せるのか? 
なんもせんでバカと嗤うのと、ホントにバカやってのけてバカ笑うのとでは、
ツキトスッポンポンに異なるコトのんぞ。

致し方ない管理看板の無粋が却って作品に凄みを添える。
注意!この作品は物理的にも思想的にも危険です!ッハッハッハ。
楽しいルックスよもんキッズだって遊具だと思って乗って偏ってゴロリーン倒れるわ。

ハテサテこんなアブナイ代物を作ったのはいったいどこのアブナイ人物だ?
さぞアブナイ組織の親玉で、アブナイ弟子をシコタマ育てたに違いないのである。



最上作品の一貫した特長に、軽やかなカタカナ羅列タイトルがあります。
椎名誠らが ‘昭和軽薄体’ で権威主義的文学界とタタカッテキタように、
重々しい命名によってイメージが拘束されるのを嫌ったのではないかと察します。
『ドヂ』『ヘベレケ』『バッ ドラネコミャオー』『ヨレヨレヨーレヨレ』
果ては『ランララチンチンオトコノコ』『チーンチン』『ポコチン』等々、
どれをとっても粒揃いのええかげんにしなさい。

たびたび謎の文言を唱えたり絶叫なさっていたのは、天より次々と降り来る無作為な美の暗号を、
日頃からビビビ受信してやまなかったのでしょうね。…やっぱ電波系?
そうして言葉の音律をも彫刻していらしたのだと俺は捉えている。

中でもこちら↓などイタズラの究極と申せましょうか。


▲『イロハニホヘトチリヌルヲワカヨタレソツネナラムウヰノオクヤマケフコヘテアサキユメミシヱヒモセスン』

ドスンと頑固に寡黙な大岩と思いきや、表面にぎっしり片仮名が彫り刻まれている。
荒肌の原石の内面でガヤガヤワチャワチャと蠢き犇めくことばの原石。
漫画のモコモコ吹き出しのような様相とみればコミカルにも、
思考渦巻く脳の様相とみれば何やらグロテスクにさえも映る。電波の極み!

屋外常設なのにこの日は裏庭が閉鎖中で近くまで寄れず格子ごし遠巻きの撮影となりました。
なんで立入禁止? 入場制限?ディスタンス? 馬鹿じゃねえの?
しかしその不自由さが却って ‘覗いてみたら庭の何だあれ…’ 的デバガメ鑑賞に。
バッカジャネーノ コーシゴシ、トーマキニ ナンダーレ。

製作において文字という具象を刻むときは慎重にしなければならない。
せっかくの印象を固定してしまい闊達な想像を阻害する危険がある。
が本作はそれを感じさせず、むしろそのきらいを逆手に遊び尽くして見えた。

ロゼッタストーンしかり、数千年後に出土したら未来人はどう考えるかしら。
神を崇める象徴云々…イカニモシカツメらしい解釈に、モガちゃん大笑いすっかもね。
或いは天のいかづちがピシャンと降りて真っ二つに割れたらどうなるか。
ワレタナカカラト飛び出しそう。
」が、ヌ!ヌ!言いながらトコトコ歩く光景が目に浮かびます。


ヌヌヌ納得ゆかヌ接近禁止に、畜生め、上野畜生園に乱入し亀でも冷やかしたろうかと意気込むも、

凄い行列。えー、ちょっと歩けば裏の弁天さん側の入口から待たずに入れるのに。
ばかだねえ、思考力に乏しい従順日本人、ばかだねえ。
おぎょうぎよく、いちれつにならんで、わあいパンダさんだあ、ぞうさんだあ。
コンデソーだからまたコンドニショー。



モガモガ、モガモガ、ナニガナンヤラ、ピンとこない貴方でも、


『モクモクワクワクヨコハマヨーヨー』

もし横浜の街にお関わりならこの謎のグルリングルリンを一度は見かけたことがあるのでは。
モガちゃん先生のおそらく最も著名な大仕事。

未来ローマ神殿の如く重厚な柱体が、しかし何を建築構造的に支えて逞しく屹立するわけでなく、
ただただ上空でクルリンパとおどけては隣の柱と繋がっていくのみで、意味がわからない。
ッハッハ、だからこれはナニになってんだよ?! と、初めて見に来た日に笑ったものです。

他の銘作『テクテクテクテク』『トントンビョウシノアシビョウシ』にみられる、
クカクカクケクケと軽快でランダムなダイナミズムとはまた異なる印象。
さすがにこの規模になると図面との格闘や外注施工案件が増えて業者も多数入ると察するから、
精度が出て作家の手仕事感に薄くなるぶん洗練したモダーンでヨコハマーな薫りを知覚する。
風や雲のみならず、生きる氣のようなものが、渦に揉まれて組んず解れつ。

これだけのステンレス鋼、トホウもトテツもない重量になるはずだが、パイプ構造のなんと軽やかな。
ビル風の緩衝という題目を越えた意味わからん造形がいつしか街に溶け込んで、
ふと見上げると何なんだあれは…わかんないけど綺麗…なんか写真撮っとく?
ナンダカンダで街の役に立っている巨大な我が道アートって凄いよな。芸術冥利に尽きる。

なおこの空間、やれ(例)横浜モダンフューチャーよこはまプロムナードtheYOKOHAMAだのナンのと、
いかにも行政がホザきそうなところを単に「ヨーヨー広場」っていうのよ。正解。わかんなカワイイ。

安全面の配慮も感じ取れますね。土台部分、ちびっこが勝手に登れないように意匠してある
ジャングルジむような組み方をしている造形物では特に要注意だ。

キッズは無邪気なので遊具っぽいの見るや必ず駆け寄って内部に入りたくなりますから、
登れる構造だと本当にくぐってしまい、後先考えずグングン昇り、回転箇所で怖くなり、
無理に出ようとして頭つっかえて首吊るに決まっています。救助も一苦労。

街の笑顔のために頑張った芸術家が他責社会に吊るされるのは目に見えたこと。
ハハハなんでコンナもの作ったんダ?が、オイッなんでこんな物を作ったんだ!に変わって、
見逃し失敗のフォローどころか全てを元に戻せなくなる。
キチガイをのびのび実現するためには'先回りの心配性'という要素を加味せねばならない。
太陽の塔に登った男を喜ぶ岡本太郎のようにはいかんですよ。


【参考】

▲表現活動に関わる者は皆もれなく心に刻むべき悲しい事故。と同時に、
最低限の先行きすら想定できない人間を関わらせてはならない!ことの重い教訓である。
特に学生は実験アート気取ったプライド無知バカが相当いますので指導担当者は厳重注意です。



夕刻。二子玉川に再び戻ってきました。

キミと出逢った現場だぞ。足生えて、靴履いて、今なに想う。


人間でないものには「出合う」が正しく… と逐一のたまう学校教育は、くたばれ。
機会に寄せる心の重みで効果的に使い分ければよろしいこと。ヒトかモノかではない。

でも決まりは決まりだから守るべきであって勝手な判断は許されない? 
それは、使わんとする者が、使い分ける感性に乏しく、決めてやらんと使い分けられんからだ。
決めてやらんと使い分けられんようだから使い分ける感性にも乏しいのである。
そんなことだから木屑だらけの木製ジャングルジムに熱もつ投光器を据えてナンも感じないのです。

好きな石・変な石探しを愉しむカップルやファミリーがちらほらおいでだな(写真奥)。
はからずや石拾いは人を夢中にさせる。彫刻を捉える感性にも繋がろう。
山水が礫を磨くやうに、人の心も亦た。



日没前に玉川高島屋の最上階レストランフロアから現場を見降ろす。
石は数多あれど、ニコタマダムの優雅な週末に繰り出せる個体はそうはいまい。

見やれ… クレーン揺らめくあの地区がキミの採取流域と同時に長年いわくつきのエリアだ。

堤防道路の ‘内側’ に住宅が寄り合ってるんだよ。そりゃあ大氾濫時には危ない。
想定した周辺整備計画が進められてきたが川原の景観を守りたい意見との調整を要し、
そこへ猛台風19号が襲い、見事に溢水してしまってやっとこさどうにかこうにか。

川幅が狭まったのち水のパワーが淀むためか、当該地区は流れ着く石つぶても多種多様。
昭和ひとけたの時代には産業用途の採取場になっていたと伺う。
といって有価な貴石稀石には乏しく、かわりに鉄ゴミ漂着多しとあって、荒&粗っぽい印象を受ける。
父母恋し水子たちもいいかげん勘弁してよと泣いて石積みを放り出しポケモンゲーム等に転じるレベル。

まさにその思し召しで、たまたま俺に見つかって足生え鼻もぐらと相成った石塊と同様の、

こういう↑中大型ナン型のインドカレーのね)がずいぶん陸側に打ち上がるものと思われます。

形態が安田侃ばりに滑らかなのは川にじっくりと磨かれてきたからであろう。
荒天の鉄砲水に掬い流されて、再びの晴天下にこうしてポツネンと取り残されてしまう。
誰知らず創り上げ、誰見ずとも展示さえ成す、川の自然彫刻。そうありたいものですね。
過去にはホントに水子地蔵尊像だったら微笑み観音も爆笑すんだろうな。



留めてないといえば、本当はもう1点、
横須賀の公園にそびえ立っていた高層モガちゃん作品、

『ヘイワ オーキクナーレ』を観にも行きたかったが、アレに限ってはチョッ……ト、
メッセージとくに文字入れに些か直球さがあって、行くのを少々躊躇しているうち、
何とも淋しい顛末を辿ることになり、残念ながら今はもう姿を消してしまったんだ。
(ポカポカオヒサマテルホドニが宇部市自治体に)捨てられてなければ、あるヨ」
と、ムサビ12号館前で笑って仰った最上先生の言葉がよぎります。

市政の急ぎ判断も一定の理解はできる。落下や倒壊で事故など起きたら対応の遅れを責められよう。
限らず方々で私設高層物件や巨大観音像の老朽化問題が山積しているし。
でも街をずっと見守ってきた塔なんだし、解体するにしても、感謝の鎮魂祭を催すとかさぁ。
市民会館にミニチュア資料展示を遺してくれたのがせめてもの弔いか。
レーザー光タワー新設で茶ぁ濁したのは再び実体的な巨像を建てての維持メンテを心配したか。



べらぼうに甚大な無用物を創ろうなどとキチガイやってる時代でないとか、
キチガイ彫刻家だからキチガイ作品ばかり作るのだという世間の理解は、一面的に思える。
それだけではああまで一貫してトッピョウシモナイトッピョウシナシナモノが飛び出さないと思うんだ。

決まったカタチに従え従順であれと重く迫り来る規範へのナンダクソを、
しかし安易なルサンチマンに走らずなるたけ自由に飛翔する空想をもって解放しようと努めた、
意外や理性的な優しい心の贈り物ひとつひとつたちに、俺には感じられてならない。
キチガイじゃあないんだよ。構造的かつ戦略的に立ち向かい続けた男の軌跡だ。

とすれば鑑賞者と作家の本望はひたすらナンダコレとの対面を笑って愉しむことではないかしら。
彫刻に限らずアートってなんやらムヅカジイヅベコベを読み取らせようとするでしょ。
愉快な戯れと、男一匹・芸術家の魂は、少し別のところに在る。


そう思索しつつ、高島屋テラスで偶然遭遇したのは…


▲▼西巻一彦『あっちでモシモシ こっちでモシモシ』

なんだこれ。
こちらは最上作品ではありませんが…携帯通話にふける亀の群像でした。
もしもしかめよ~からのホントに石像に仕立てちゃうバイタリティ。
っはっは、近代日本彫刻ッつのは目一杯おどけ倒すのがトレンドなのか?


寒くなり、さっきまでの陽だまりが恋しくなってきました。
『ポカポカオヒサマテルホドニ』を拝みに山口県まで行くかい?と問うと、

当の石ときたら、モダンアジアン テルホドニ、
かご照明から漏れる温かな光にシンパッスィーをおぼえてしまった模様。
こないだまで川の石コロだったくせして、いっちょ前にイサムノグちやがって。

こうして並ぶとお洒落やろ。リゔぃング・ライフ・デぇザインやろ。
漬物石でしかなかったものが足生えて靴履いて出先で急に馴染むやろ。
想像する → 想像したらやってみる → 新たな画を得る、ってプロセスが大事。
そろそろ皆さんにもコイツにひとつの人格を、いちキャラをご認識戴けると有難い。

なぬ! さいですか、さいですか。
どーみても尚もつまらん河原の石にしか見えんし意味わからん、そんなオメェたち様には、
同じ写真が1発で有価値に感じちゃう悪戯をちょいと施して進ぜよう。

いいかい↓、

ほれ、ええ↑やろ、ぽいやろ。
ぶらりインテリア探しのインテリ屋さんは当然当店入っちゃうやろ。いらっしゃいませ。

でなかったら、こり↓ならどーだ。

ぽいやろうがい。今宵一杯やりたいやろがい。
なんや言いたげに、なんか言うてそうで、実際なんも言うてへんねん。
もちろん今パッと作ったパロディです、本物の広告ではないのでお間違えなく。
商標ロゴをまんま使うといっぱい叱られるので似たものをあてがいました。

スゴぉ〜いホンモノの広告みた〜い♪ じゃないの。
いかに皆さんったらブランド箔付け理由付けばっかしでしかモノを眺め見定めていないか、
イぃチコイぃチコ提示されねば辿り着き得ないことがこれでイデーほど解るだろう?
何も言うてない空間から惹き出す感性のまことに罪作りであるのは、
そもそも感性に乏しい人に対しては何かしら言ってやらんことには惹き出せんのだ。
こりがデザインの力である! マルクソマヤカシの力ともいえるけど…




〜 = 〜 = 〜 = 〜 = 〜 = 〜 = 〜 = 〜 = 〜 = 〜 = 〜



…脱線、脱線。

ま・確かに、石に美をなどと常識外のワレワレワ・エイリアン(喉チョップしながら声)やもしらぬ。
キチガイパンピーの狭間にはどうしても溝が生じるもので、
溝を埋め得るものがアートやらデザインなる表現手段であるわけだ。
さながら武蔵野美大は師弟が感性をギーガーギーガー彫り刻むエイリアン養成所の様相。
彫刻学科なんてそのトライアルノサイタルトコロじゃないかな。

新入生および卒業生へ贈る最上先生のエール『ホンキ ノンキ コンキ!』は今も大切に僕らの心に。
ご自身の退任記念展は『コドモ ドコマデモ コドモ』と相変わらずの無邪気ぶり。
惜しまれながら『イッテ ミヨウヨ アノヨマデ』と相成るも、
気鋭の後進によって恩師を偲ぶ会『サイゴノバンサン ボクガイル』の集いを開催さる…
いやあ極まってるよねえ。おかしな名物教授たくさんいらっさったけれども、
アタマイッテル! キチガイモガチャン! と皆から慕われて、愛されて。


最上先生の巨石材料は主に富士川で調達と伺います。
無数の礫より『コレワ・コレワ』!と感じし一塊を拾い、
晴れ舞台へ現し表せば、モノ・ヒト・カミ、其々の意向が交差する。

及ばずながら私めも、幼少より親しんだ多摩川にて、イイトシ コイテ イイイシ サガシ。
自分で岩掘って木ぃ掘ってモグラネグラを得るコツブな彫刻ムシまで発見してしまい、
おかげで丸10年も本業すっぽかす大脱線をしたけれど。

「こつぶ荘」

相違があるとすれば、最上先生は天空へ宇宙へと豪快に伸び上がる視点、
俺は手頃に出逢える小さき者たちの視点から、造形という有限無限の海原、
エタイノシレヌ・エターナルシーに挑もうとモガモガもがいている。

こりがほんとの共通彫塑、ミクロマクロのドグラマグラだな。

自分で言ってて意味がさっぱり知れないけれども。










    サ ー ラ ン ギ ー 図 鑑     

★バイオリンは皆さんご存じのあの形状にほぼ定まっています。しかしサーランギーは製作者・時代・地方によって様々な自由形が存在し、今なお進化を続けています。特に弦数や配線は個体によって全くまちまち。これは、先人に学んでこう作らなければならない・本場の本家本元ではこれが正しい・こうでなければ本物の価値が無い、といった固定概念に縛られていないためです。ひとくちに捉えられないそれらをサーランピーでは「サーランギー属」と総称しています。

こうして並べますといかにもアジア諸国調査で得られた現地サンプルに見えますが、なんと殆どが日本国内で発掘されたものです。日本人の技術で修理を施しました。…そう言われると急に萎えますでしょう? みんな興味本位で取り寄せて結局すぐ手放しちゃうからこういうことになるのです。

しかもこの中には当方が捏造したオリジナル楽器をまことしやかにねじ込んであります。果たしてどれが現地の風薫る本家本物のお宝で、どれが世にもいかがわしい贋作か? 鑑定やいかに?…といったこだわりは、どうにでもなることですし、実のところどうでもよろしいことなのかもしれません。



チーペスト号  名古屋の誰だ号  結局ウチに号  

ボロ号  55号  黄泉号

グランピエ号 ジョギヤ 前方後円ジョギヤ 

カリマンタン号 恵さんでしたか号 そそるスリム号 

ドードゥロバナム ドゥカン号 サランガ

サランガ・ペタンコ エレクトリック チカーラー

チカーラー(近代版) サローズ アフガンサリンダ

ネパリ くさっぱら号 さらん弓(さらんきゅう)

サランダ  擦弦仮面 ダルマサンガ サランダ

ディルルバ エスラジ タール シェナイ

エスラマ ベラバハール カマイチャ

ラーヴァナハッタ ペナ エスラール
プールヴィーナ バリアジアン号 サラウドン
ストゥーパ号 ドドバシキメラ





    文 化 へ の 冒 涜 で は ?     


サーランギーの化石(カンブリア期)


いいえ、全く冒涜にはあたりません。サーランギー属は進化を歓迎し、地域毎に異なる展開を許す楽器群です

民族学・民俗学では、創作の混入は許されず、ありのままを正確にサンプリングすることで解明に努め、敬意を払います。つまり研究者はあくまで傍観者、せいぜい中途参加者であって、真の当事者にはなれません。研究者が自ら文化に手を加え、研究対象を自分自身とし、文化の歴史を塗り替える、これが許されるなら何だってやりたい放題になってしまいます。そのため研究者は、専門性・正確性への拘りにばかりにプライドを置き、しかし自分では大した表現が出来ない、融通の効かない方向へと人格形成されがちです。異文化理解を唱える本人が無理解とは皮肉なもの。サーランピーではこの状態を「スウェーデンポルノ女優のスリーサイズを精緻に暗記した童貞」と呼び、陥らぬよう自戒しています。

だども、オラ、この楽器がこの島でどう進化すんだか夢みちょる真ッ当事者の日本民族だで。何をどう作ろうと直そうとオラほの自由だ。オラが村の遊びがまんまこの楽器の進化の歴史になるだ。「インチキ業者」「思い上がるな」「現地の文化に失礼」「1人で騒いでるだけ」とお感じなのは、ひとえに貴方の心が許さないから。なにせその現地をはじめ世界各国からウチ宛てに「サイトを見た。修理はできるか? オリジナル楽器のオーダーは可能か?」と打診が来ます。もちろん断りますよ。てめーでやれっ。もしくはてめーの村の良さでやってみれっ。…そうすることがいつしか文化となるのだから。